ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア

本を読んでそこから新しい知識を得たり、学んだりすることが大好き。学びたい、成長したいという意欲のあるビジネスマンの皆さん、一緒に成長しましょう。

マイケル・アブラショフ/アメリカ海軍に学ぶ「最強のチーム」の作り方

とある日のこと、知人がビジネススクールの教授に、
部下のマネジメントに関して相談したそうな。

そしたら先生から一言質問、その部下たちは頭良いのか?と。
答えて曰く、あんまり頭良いほうじゃないです、と。

それならこれ読め、とオススメされたのがこの本だったらしい。

そんな噂話を聞いて、自分でも読んでみたくなったので読んでみた次第。
まぁ、マネジメントには色々なスタイルがあるし、
正解はないのかもしれないけれど、この人のケースは成果を上げた一つの事例ではある。

アメリカ海軍に学ぶ「最強のチーム」のつくり方

アメリカ海軍に学ぶ「最強のチーム」のつくり方


議論は議論

議論は尽くすほうが良い。
でも一度決まったら、自分の意見とは違ったとしても決まったことの実行に全力を尽くす。
これがとても大切。たまにこの辺がわからないバカがいるけど本当に良くない。

くだされた命令が自分の意見と一致しない、それでもそれを執行する責任がある、ということはたびたびある。
どうしても異議があれば、上司と話し合うことが必要だろう。
だが、もし議論に負けたのなら、その命令を100パーセント納得して実行することも大切だ。
P.52

それと、部分最適の集合が全体最適になるわけではないので、
取り上げられなかった意見が間違いというわけでもない。
ある部分においては正しい意見を言っていることは往々にして多い。
中途半端に頭の良いやつはこの辺でつまずく。
正しいこと言ってるはずなのにわかってもらえない、みたいな。
でもお前が見ている範囲は全体からしたらごく一部でしかないんだよっていう。


帰属意識

確かに自分の仕事への帰属意識とか、誇らしさみたいなものを
一人一人が持てると素晴らしいとは思うけど、
多少洗脳じみたことも必要になってくるよなぁ、と思ったり。
まぁ、ビジネススクールではビジョンとか言うけど。

私の部下たちは、さまざまな寄港先で、新しい友だちを文字通り、何十、何百人もつくっているようで、彼らが熱心に艦に招こうとするのを見て心を打たれた。
彼らがペンフォルドを誇らしく感じているのは明らかだった。
企業もこうした誇りを生み出すことができるはずだ。
社員が自分の職場を友人に見せたくなるような場所だと考えるようになれば、どんなにすばらしいだろう。
もし社員がそうした帰属意識を持つなら、ささいな原因による職場での不和など消えてなくなるはずだ。
P.228

まぁ、育児みたいなもんだな

部下の成長を喜びとするってこと。
まぁ自然とそうなってくる気はする。
部下が成長したなぁ、っていう実感が喜びになるんだろうな。

そこを履き違えなければ良いマネジメントができるのだと思う、多分。
少なくとも部下の手柄を横取りしようみたいな上司は、
何もわかっていないってことだな。

人はみな自分がいかにうまくやったかということにこだわるが、指導者の最大の満足感は、個人の業績を超えたところにある。
それは他の人問の能力を引き出すことである。
ペンフォルドでの任期中、問違いなく私はその衝動に突き動かされていた。
P.237


アメリカ海軍に学ぶ「最強のチーム」のつくり方

アメリカ海軍に学ぶ「最強のチーム」のつくり方

ワークフローをプログラマー的な視点で見るといいかも? 清水亮/最速の仕事術はプログラマーが知っている

まぁタイトル通りのお仕事術の本。
効率化のためのTips集でもあるのだけど、
どこに注目して工程の無駄を省くか、という考え方の本でもある。

別段ものすごく目新しいことが書いてあるわけではないと思うけれど、
ワークフローの無駄に眼を光らせ、合理的な解決策を導き出す、
この思考回路がプログラマーとしての思考と親和性が高いってのはよくわかった。

まぁ頭の良い理系って文系的なバランスがとても良い印象。
賢い人は文理の壁を越えるんだな。

中途半端が一番良くない・・・。

最速の仕事術はプログラマーが知っている

最速の仕事術はプログラマーが知っている

最速の仕事術はプログラマーが知っている

最速の仕事術はプログラマーが知っている

ネットの情報は価値なし

便利になったけど、そこに公開されている情報は誰でもアクセスできるものだから
本質的に差別化要因にならないって話。

「重要な情報」とは、競争相手に勝つためのヒントになるとか、その情報自体が大きな資産価値を持つ、というものだとここでは定義する。
とすると、当然ながらすべての人々に無償で提供されている情報に重要な価値があるわけがない。
例えばWikipedia は非常に有用ではあるが、Wikipedia に書かれた記事から利益を生むような価値を生み出すことはとても困難である。
このとき、Wikipedia の情報は有用ではあるが重要ではない、と定義することにしよう。
ということは、本質的に重要な情報はWebで検索できないのである。
重要な情報というのは格差の中にあるわけだから。
「みんなが知ってて当たり前」の事実だけをもとに価値のある情報を選びとるのはとても困難だ。
P.83

この話って以前読んだ内田和成『プロの知的生産術』でも言ってたことだな。

digima.hatenablog.jp


サイトのアーカイブ

これは、メモ。面白そう。

「この企業のかつてのWebサイトはどのようなデザインだったか」という、時系列の変化を追いたい場合は「Internet Archive: Wayback machine (http://archive.org/web/)」が有効である。
このサイトは過去の4600 億以上のWebサイトをそのまま保管しており、有名なサイトなら過去の任意の時点のページを参照することができる。
いわばインターネット全体の歴史が保管されている。
P.86

クリエイティビティは移動距離に比例する

そうなんだ、初めて聞いたよ・・・
まぁ、ゲーム業界じゃないから仕方ないのかもしれんけど。

ゲーム業界では古くから「クリエイティビティは移動距離に比例する」と言われている。
しかもできるだけ低い位置の移動がいい。
低い位置、というのは、つまり飛行機よりも電車、電車よりも自動車、自動車よりも自転車、自転車より……も徒歩ということだ。
P.95

経営者は本質的にニート

たしかに、字義にもかなってるし、
経営者は働いたら(自分の手を動かしたら)負け、なのは確か。

私はよく、自分の職業を聞かれた際、「ニートです」と答える。
なぜか?NEETとは、Not in Education, Employment or Training の略だからである。
私は誰かに雇用されている(Employment)わけではないし、教育を受けている(Education) わけでも、訓練中(Training) でもない。
つまり経営者は本質的にNEETなのだ。
NEETといえば、「働いたら負け」である。
P.150


最速の仕事術はプログラマーが知っている

最速の仕事術はプログラマーが知っている

最速の仕事術はプログラマーが知っている

最速の仕事術はプログラマーが知っている

コンテンツビジネスに関わる人は必読の書だろうな。名著。 川上量生/鈴木さんにも分かるネットの未来

ドワンゴの川上さんがジブリの鈴木さんにネットのことをわかって貰うように解説、というコンセプト。
わかりやすく、平易な言葉で、本質を突いている。
川上さんの本は初めて読んだけれど、とても頭の良い人だな、と感心。
そして、角川はちゃんと考えて、あるべき姿を目指していることがわかる。


劣等感と優越感

このネット民の気持ち、特に優越感の方は、20年前に自分がネットに感じたワクワク感、興奮を思い出すな。
読んでて思ったけど、世間一般のイメージでは、ネットに対するネガティブな印象って強いんだろうな。
ネット住民=社会から阻害されたというイメージは持っていなかったから、逆に世間の印象を感じたくだりでもあった。

ネット住民になることを選んだのは現実社会から疎外されたという消極的な選択肢としての理由も大きな部分を占めているとは思いますが、それ以上にネットの世界は面白くて時代の先端だと自分から望んで飛び込んできた部分も非常に大きいのです。
そして自分たちがネットの可能性を早くに見つけ、そこを住処に選んだことには誇りを持っているのです。
現実社会への劣等感と優越感がないまぜになったコンプレックスというのが、ネット住民の心性を表す大きな特徴なのです。
P.27

ネットとメディア

情報は完全自由競争時代になり、マスメディアはマスに情報を行き渡らせる装置としての機能がより重視されている印象。

ネットで従来のマスメディアのビジネスが危機を迎えている根本的な理由は、独占していた情報の流通経路がネット企業に奪われ、情報の発信者としては個人とすら競争しなければいけないという完全自由競争の中に放り込まれたからなのです。
P.47

マスに情報をデリバリーする力はやっぱり侮れないんだよなぁ、マスメディア。

つまりネットメディアにおいてもロコミを喚起するための正当な宣伝手法はマスメディアを使うことなのです。
そしてネットには、まだテレビほどの巨大な影響力のあるマスメディア的なものは存在していないのです。
これが、いまだにネットのムーブメントを起こすのにもテレビがもっとも重要なメディアである理由ですし、また、テレビをまったく見ないような若い世代に対してはなかなか有効なプロモーション方法が存在しない理由です。
P.62

一部のマスメディアが情報操作を握っていた時代から、誰でも情報操作が可能な時代へ。
それは真実へ近づくかというとそうではないってところが面白い。

たしかに情報を発信する権利はマスメディアの独占ではなくなり、ネットメディアによって民主化されました。
しかし、情報を発信する権利の民主化は、同時に情報を操作する権利の民主化を意味したようです。
ネットメディアの時代とはマスメディアにより特定の嘘の情報を流し続けることが難しくなった時代ではありますが、それによって真実の情報が流れるようになったのかというとそれも違うのです。
大衆がだれでも情報操作をすることが可能になったのが、ネット世論の世界なのです。
P.70

ディアビジネスに関して

コンテンツのマネタイズが非常に難しい構造になってしまっているということ。
広告のモデルの中にもコンテンツへ還元する仕組みが弱い。
特にオリジナルコンテンツへの還元が厳しい。

まとめサイトやキュレーションメディアに使われてしまう状況。
これだとオリジナルコンテンツの制作にコストをかけられない。

通常、ネットの広告費はPV(ページビュー)数だったりクリック数だったりで決まります。
PV数というのはウェブページが何回表示されるかです。
クリック数というのはウェブページに貼ってある広告のボタンが何回押されたかです。
ウェブページの中身に感動したかどうかとかは関係なくて、あくまでウェブページにおまけでついている広告バナーを何回見せたか、何回クリックされたかでしか広告収入は増えないのです。
そうなると1PVあたり、もしくは1クリックあたりにどれだけ安いコストでウェブページをつくれたかどうかで儲かるか儲からないかが決まります。
コンテンツの中身は関係なくなるのです。
第2章でも説明しましたが、ネットには2ちゃんねるで話題になった掲示板をコピーして見やすくしただけの「まとめサイト」というジャンルがあります。
これはなにしろ話題になった掲示板をコピーして表示するだけですから、簡単にコンテンツがつくれて、しかも面白いのです。
ネットでコンテンツを広告モデルでつくるというのは、こういうコピーしただけのコンテンツと同じ土俵でコスト競争するということなのです。
P.80

上記のようなコピーコンテンツとコスト競争なんて勝てるわけもなく・・・
ただ、クオリティの高いコンテンツへの需要もまた、次第に高まっていく可能性もある。
一部のキュレーションサイトがオリジナルコンテンツに注力しだしたように。
でもそれも、コンテンツ配信のプラットフォームを持っているところが、オリジナルコンテンツの作成をするからこそ可能なこと。
結局従来のコンテンツ制作者である出版や新聞はコンテンツをデリバリーする力を失ってしまっている。
プラットフォームになろうとしていないから。
ネットの世界ではデリバリーできるやつが強い。

コンテンツを紹介しているウェブページがあった場合、PV数=広告収入は紹介したウェブページの所有者のものになります。
また、コンテンツを探すために検索をした場合はグーグルやヤフーの広告収入になります。
そしてコンテンツの感想をSNSとか掲示板でユーザが書いたりするとSNSや掲示板のPV数=広告収入になるのです。
つまりコンテンツの制作費用を賄うためにインターネットの広告モデルを利用すると、コンテンツをつくった人以外のプレイヤーにも同時に広告収入が発生する仕組みになっているのです。
この仕組みでは広告収入の分け前はインターネット全体に広く薄く分配されますので(グーグルとかの広告プラットフォームには厚めですが)、一見すると分かりにくいですが、コンテンツをつくることで発生したPV数=広告収入のうちコンテンツ側に還元される割合はかなり小さくなるのです。
P.82 - P.83

ほんと、まったくもって仰るとおり。
コンテンツ制作側が儲けるのが無理ゲーになりつつある。


プラットフォームとの付き合い方

コンテンツを利用することしか考えていない相手なので、ボケーっとしてると良いように使われて捨てられる。
その辺、しっかりと戦略を持って交渉する、ということができてないので、
個別に交渉負けしてなし崩しになってしまう。

インターネット業界のほうでよく電子書籍の価格を紙より安くすれば普及するんだと出版業界を非難する人がいますが、安くしなければ普及しないようなものを新しい時代のメディアだと主張するのはどうかしていると思います。
長期的にはコストの安いデジタルコンテンツの価格が競争の結果として低下することはあっても、まだ普及していない段階で、デジタルコンテンツというプラットフォームが普及するためのコストを払うべきなのはプラットフォームを握っているインターネット業界側であって、コンテンツ側に低価格戦略を無理強いすることでプラットフォーム普及のための宣伝費を肩代わりさせるような理屈はおかしいのです。
P.89

おかしいものにおかしいとしっかり言い切るのが重要なのだけど、
最初から腰が引けてるか、コロッとだまされて良い話を貰ったかのように動いてしまう人がいたり・・・。

プラットフォーム側はユーザを増やしたいのでコンテンツを欲しがります。
プラットフォームにとって殼大の宣伝材料はコンテンツなのです。
したがって、プラットフォームは強力なコンテンツには特別な条件や契約金を提示することがよくあります。
また、コンテンツ側としては新しいプラットフォームに対しては、できるだけもったいをつけてコンテンツの提供を渋るというのが正しい基本戦略になるのです。
P.97

この当たり前の基本戦略が有効なうちに、最大限活用しなければいけないのだけど、
こと出版物に関していえば、気づいたところで見直す可能性は残されている。
ただ、その場合、Amazonなんかは交渉決裂後ユーザーは突然読めなくなる、なんてことも起きかねない。

一般にプラットフォームというものは、「われわれはコンテンツはつくりません。
みなさんの商売の邪魔をしませんから、自由にわれわれのプラットフォームを使ってください」みたいなメッセージを発信することが多いですが、コンテンツをつくるというのは実は一番手間がかかって大変な部分です。
コンテンツをつくらないというのは、プラットフォームにとっては楽をする戦略であるともいえます。
また、プラットフォームが並立している場合にはプラットフォーム間の競争のためにコンテンツが販促手段として犠牲にされがちな構造が先のようにあるわけです。
ですからぼくは、コンテンツはつくらないと宣言するプラットフォームがフェアであるとも責任ある態度だとも思いません。
任天堂ソニー・コンピュータエンタテインメントのように自らもコンテンツをつくり、コンテンツから利益をあげる家庭用ゲーム機のようなプラットフォームが、実はコンテンツが儲かる仕組みが維持されて、コンテンツのクリエイターにとって幸せな環境ではないかと思うのです。
P.110

コンテンツ制作側が儲かる構造を模索しないと、コンテンツがどんどん作りづらくなる。
コンテンツ制作って、博打みたいな投資でもあるから。
まぁこれだけコンテンツがあふれてる現代において、新しいコンテンツなんているの?っていう問題もあるのだけど。


顧客と直接繋がることの重要性

この重要性にコンテンツホルダーが本気で向き合うことが重要で、
角川は他の大手出版に先んじてちゃんとやろうとしてる。
そんなに好きな出版社ではないけれど、やってることはとても正しい。

顧客接点の死守、これが非常に重要なポイントなのです。
逆にいうと、いまのiTunes StoreKindleストアにコンテンツを提供しても顧客との接点はアップルやアマゾンに独占されるだけなのです。
お客さんがコンテンツを購入したとき、iTunesKindleで購入したとは記憶するでしょうが、そのコンテンツがどの出版社のものなのかということは通常あまり意識されません。
また、コンテンツ側はどのユーザがコンテンツを購入したかの情報がもらえませんから、購入者限定で、なにか特別なマーケティングをおこなうこともできません。
あるコンテンツを購入した人に他にどんなコンテンツを買えばいいかをリコメントするのはプラットフォーム側の権利であって、コンテンツ側の権利ではなくなるのです。
P.112

読み放題、見放題、聞き放題

最近、すごい勢いでこういうサービスが乱立してきているけれど、、、

定額の月額料金を支払えばすべてのコンテンツが無料で利用できるというサービスモデルがネット時代には主力になるとして注目されています。
個別のコンテンツごとに課金するモデルは、もう古いというわけです。
ぼくはこのような定額サービスは過渡的なもので、限界があると思っています。
理由はシンプルで、すべてのコンテンツの制作費を賄うほど収入を分配することが難しいだろうからです。
もし、できるだけ多くのコンテンツの制作費を賄えるように収入を分配すると、今度は一番人気のある作品が定額サービスに加わることが損になります。
人気のあるサービスは、利益を全部自分たちで得ようとおそらくは独自のプラットフォームをつくるほうヘシフトするでしょう。
P.121 - P.122

そして本当にこうなるとしたら、これからのコンテンツビジネスは結構面白い状況になるかも。
主導権を巡る大乱戦。


テレビの価値

多チャンネル時代はテレビ自体の影響力を弱めてしまう、というのは至極ごもっとも。

テレビの競争力を生み出す鍵となっているのは、大量の人々に同時体験を与えているということです。
この構図が崩れるとテレビの優位性は失われます。
したがって、ぼくはテレビ局の多チャンネル化については注意が必要だと思います。
ネットにおいて競争力を確保するためには、むしろ、チャンネル数を減らし絞ることが有効であり、チャンネルを増やして多様なユーザニーズに対応するのは、放送免許にもはや守られないテレビ局の最大の武器である大量の視聴者を分散させてしまう危険があるからです。
P.244 - P.245

多様性って難しい

そもそもオリジナルな物を作り出せる才能というのはとても貴重で希少なものだってことを
認識しないとダメだな、と思う。当たり前のことだけど、その業界の人でも忘れてしまいがち。

あと最近、集合知も素晴らしいけど、一歩間違うと集合愚、みたいな状況にもなっちゃうよね、てのが気になってる。
そもそも人が増えれば増えるほど、平均に回帰していくわけで、
イデアとか閃きって必ずしもみんなでどうこうした方がいいものができるってもんじゃない。

UGCの最たるものでもあるAmazonのレビューとかも、レビュー数が多くなればなるほど、
参考にならないというか、ゴミみたいな情報をより分けるのが面倒くさくなるなぁ、とか。

UGCは自由につくれるので、コンテンツの多様性があるというふたつ目の指摘は本当でしょうか?これについて、ぼくは非常に懐疑的です。
アマチュアは自由に創作できるにもかかわらず、むしろ作品の多様性は失われる傾向にあると思います。
たとえばネットサービスではありませんが、ユーザ主体の即売会であるコミケを例にとると、ほとんどの作品はパロディなどの二次創作であって、オリジナル作品は少数です。
商業作品と比較するとむしろ偏っているように見えます。
二コニコ動画についても同じで、どんな動画を投稿しても構わないのに、投稿されているジャンルには明確な偏りがあります。
商業作品で人気のあるジャンルよりは、むしろ商業作品では存在しないジャンルにユーザは興味があるようです。
P.285

イノベーションを創発する組織、そこには天才を活かす工夫がいっぱい。 ジョン・ガートナー/世界の技術を支配するベル研究所の興亡

アメリカの巨大通信会社AT&Tの子会社の研究所。
なんとなくすごい研究所、というイメージくらいしかなかったけれど、
改めて読むとすごいところ。

ノーベル賞7人も輩出してるし、トランジスタとか電波望遠鏡
レーザー、情報理論C言語、なんてのもこの研究所の研究成果。

そんなベル研究所の歴史を真正面から捉えたのがこの本。
類書もたくさんあるのかと思いきや、Amazonで検索しても全然出てこないから、
ここまでベル研究所にフォーカスした本はあんまりないのかも。

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡


ちなみに以前読んだ、情報理論を確立したシャノンもここに在籍。digima.hatenablog.jp

すべての情報は0と1で表せる!
ベル研究所の研究成果がなかったら今のような情報通信の世界は来てないんだろうなぁ。

というわけで、偉業の歴史であり、イノベーションを起こす組織や人に関する記録って感じ。


イノベーションは予測不可能

アーノルドは後年、研究部門についてこう語っている。「我々の成果として重視されていたのは発明だったが、それは計画したり、強制することが不可能なものだった」。研究部門の意義は<天才にふさわしい活動の場を与えること>にあった。アーノルドが言わんとしていたのは、天才も技術者と同じように確実に会社の事業に貢献する、ということである。だが天才は予測不可能なものだ。それでも開花する余地を与えなければならない。
P.38

イノベーションとオペレーションの決定的な違いは、予測不可能であること。
すなわち、かけた時間、コストが成果に必ずしも繋がらない、ということ。

この辺の話はホンダでエアバッグを開発した小林三郎の本が、非常に良く整理されている。

digima.hatenablog.jp


そして日本のメーカーの凋落をイノベーションをオペレーションと同じようにマネジメントしようとした結果だと断じている。
これって本当に大切なこと。効果、効率を求めすぎると組織は硬直化してイノベーションは起きづらくなる。
一見無駄に思えることが後で大きな成果を生む可能性がある。
目先の効率重視だと大きなものを見失う可能性がある。
ベル研究所もまさにそのことに自覚的だったことがわかる。


イノベーション創発させる工夫

思いもよらぬ所から閃きにつながることを自覚していたベル研究所は、
とにかく人とのコミュニケーションが生まれる設計をしていた。
一見自分とは関係ない人との他愛もない会話が閃きにつながることもある。
人に話しているうちに自分で閃くこともある。
自分にとっての悩みが、違う世界の人にはごく簡単な問題だったりする。

 「大学キャンパスは学部ごとに建物が分かれているが、その点は見習うつもりはなかった。逆にすべての建物を連結することで、異なる部門が一定の場所に押し込められないようにして、部門間の交流や緊密な連携を促すようにした」とバックレーはジューエットに説明している。つまり物理学者、科学者、数学者がお互いを避けたり、研究部門の人間が開発部門の人間を邪険にしたりするようなことがないようにしたのだ。
 だれもがいろいろな人と顔を合わせざるを得ないような工夫が凝らされた。研究員には通常、研究室とオフィスが両方与えられたが、同じ階にあるとは限らなかった。二つの部屋を行き来する間に、何人かの同僚と顔を合わせるようにという配慮だ。同じ狙いから、物理学者が入居する予定の建物では、廊下の長さが700フィートにも達した。
P.90

ベル研究所のタブー

 ベル研究所の研究員には、たとえて言えば、表面準位のように、超えてはならない壁がいくつかあった。靴下をはかないとか、仕事時間に電話事業とは一切関係のなさそうな機会をつくるといった奇行は許容されていた。その一方、許されない行為もあった。たとえば秘書を誘惑することは絶対に許されなかった。研究室の扉を閉じて仕事をすることも認められなかった。相手の社内的地位や所属部門にかかわらず、同僚から助けを求められたときに協力しないことも許されなかった。
 とりわけ最も重要だったのは、スーパーバイザーは部下を指導することはできても、干渉することは認められないというルールだった。
P.119

で、トランジスタが発明された時、ショックレーはこのタブーを破って、部下の成果に自分のアイデアを組み込んで進化させてしまう。
よっぽど忸怩たる思いがあったんだろうな。
そして、勝手に進展させることができたのもショックレーが並はずれた天才だったから、でもある。

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

デザインって左脳と右脳の絶妙なバランスな気がする。だから楽しい。 D.A.ノーマン/誰のためのデザイン?

マッキンゼーがデザイン会社買収したり、
デザイン思考みたいな言葉を目にする機会が増えたり、
何かと注目を集めつつあるのがデザイン。

そういう文脈とは別に、UI/UXみたいな物への関心から、
一連のデザイン系の本を読んでいるのだけど、
この本はデザインという物に対する考え方をまとめた本。
とりあえず読んどけ、といって構わないような定番本。

まぁでもデザインって単純に面白いよね。
素敵なデザインの物を見るだけでも楽しい。
それが日用品でも、家電でも、車でも、建築でも・・・。
デザインって左脳と右脳の絶妙なバランスな気がする。
そこには機能性と芸術性の両方があって、だから楽しい。

で、買っておいたのだけど読むまでに増補改訂版が出てしまった・・・。
今ならそちらをお買い求めいただく方がよろしいかと思われます。

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)


情報は頭の外にある

さらっと書いてあるから読み飛ばしがちだけど、結構大事なポイントな気がする。
頭を記憶媒体と捉えがちだけど、外部に溢れている大量の情報処理装置なんだよな。

人は、ものの配置や置き場所、文書、他の人が持っている情報、ある社会において作りだされたもの、文化の中や文化によって媒介される情報に依存している。
たくさんの情報がつまっているのは世界の中であり、頭の中ではない。
謝辞 P.9

見えるもの、見えないもの

何を見せて、何を見せないのか。
無意識に誘導させるのがデザインの力。
確かに優れたデザインの製品はマニュアルとか読む必要ないもんな。

ユーザは手助けを必要としている。
どの部分がどのように機能するか、そして、ユーザがその装置とどのようにやりとりをしたらよいかをはっきりさせるためには、適切なものがちゃんと見えていさえすればいい。
可視性は、しようとしている行為と実際の操作の間の対応づけを示している。
可視性によって、たとえば、塩入れとこしょう入れといった重要な違いを知ることができる。
操作の結果が見えること(可視性)によって電灯がちゃんと点灯したかどうか、映写幕が適切なところまで降りたかどうか、冷蔵車の温度が正しく調節されているかどうかを知ることができるのである。
コンピュータによって制御された装置の多くが使いにくいのは、この可視性がないためだろう。
また、ごちゃごちゃと機能がついたオーディオセットや、ビデオテープレコーダがユーザを威嚇せんばかりなのは、この可視性の過剰のせいだろう。
P.12 - P.13

ワークフローとかも同じ。

なんらかのエラーが起こりうる場面では、だれかがそのエラーを引き起こすだろう。
デザイナーは、起こりうるエラーが実際に起こることを想定した上で、そのエラーがおこる確率と、エラーが起こったときの影響が最小になるようにデザインしなければならない。
エラーは見つけ出しやすくなければならないし、その結果生じる損害は最小でなくてはならない。
できれば元に戻せるようにすべきだろう。
P.56

人は必ず間違うので、エラーが起きる前提で考えておく。
この辺はワークフローの設計も同じ。
組織やワークフローも要するにデザインなのだね。


右脳、左脳的な

人が思考しながら生活していくというのは、きちんとしたものでもないし、秩序だったものでもない。
きちんと論理的な形で優雅にすいすい進むといったものではないのだ。
というよりは、ある考えから別の考えに飛び移ったり、省略したり、あちこち動きながら、それまで関係のなかったものを結びつけて、新しい創造的な飛躍を生み出したり、新たな洞察や概念を作り出したりするのである。
人の思考というものは論理とは似ても似つかないものであって、その種類も考え方も根底から異なっている。
その違いが別に何か悪いわけでも良いわけでもない。
しかし、この違いこそが創造的な発見を生んだり行動の安定性を生んだりしているのである。
P.186 - P.187

ロジカルシンキングは必要だけど、
人は論理のみで生きるにあらず。
論理だけが正しい解へ連れて行ってくれるわけではない、ってのが
わからない論理だけ人間にはなりたくない。
そしてそういう論理だけ人間はなるべく蹴散らしたいな・・・。
そもそもイノベーションはロジカルな物ではない。
オペレーションとイノベーションは別物で、
世の中全部オペレーションだと思っている人間につまんない人が多い印象。


どこまで本気で重要視するか

端から見ていると、技術者とかコンピュータ科学者が何か製品をデザインをしようと頑張っているところは、おもしろいですよ。
たいていの場合、どのようにするか議論に議論を重ねて、本当にユーザにとってよいと思えることをしようと真剣ですね。
ところが、問題がユーザインターフェースとその製品の内部機構のトレードオフになると、ほとんど間違いなく話が簡単にすすむようにしてしまいがちですね。
結局彼らもそれを作らなくてはならないわけで、内部機構はできるかぎり単純にしようとするわけです。
内部構造のデザインのよさがユーザインターフェースのよさにつながることもありますけれども、常にそううまくいくわけではありません。
デザインをするチームの中には、最終的にそのインターフェースを使う人の立場を口やかましく述べるような人が本当に必要だと思いますね。
P.255

これは他人事ではないな。
ユーザーのため、使いやすくしないと、とか言っていても
トレードオフが生じるととたんに諦める、妥協する、ってのは良くある話。
そこにどこまでこだわり抜けるか、本当に重要視できるかってのは
常に突きつけられる問題。

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

世界最強の諜報機関? そんなのは映画の中だけの幻想。実態はどこにでもありそうなダメ会社!? ティム・ワイナー/CIA秘録

この手の話は、眉唾ものというか、根拠のない噂レベルの陰謀論
まことしやかに書いてあるだけのものが多い。
まぁそれはそれで楽しかったりはするのだけど、本書はちょっと違う。

ニューヨーク・タイムズの記者が5万点の機密解除文書、
10人の元長官を含む300人以上のインタビューを元に、
すべて実名証言で書いた「CIAの本当の歴史」ってのが本書の売り文句。

アメリカでも評判のようで、全米図書賞を受賞している。

CIA秘録上

CIA秘録上

CIA秘録 下

CIA秘録 下

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

そして、それだけの取材の結果浮かび上がってきたCIAの実態、
それはなんとも不格好かつお粗末な諜報機関の姿だった。

情報が錯綜し、何が真実なのかわからず翻弄される姿は、
私たちが映画などで見る世界の情報を自在に操るなんだかすごい人達の姿とは似ても似つかない。


翻弄されるCIA

ヨーロッパのいたるところで「政治亡命者やかつての諜報要員、元工作員、その他さまざまな大問が諜報の大物専門家に早変わりし、注文に応じて捏造した情報の売り買いを仲介するようになっていた」。
ヘルムスのスパイがカネをかけて情報を買えば買うほど、情報の価値は下がっていった。
「よく考えもしない問題にカネをどんどん注ぎ込む、これ以上の事例は思いつかない」とヘルムスは書いた。
ソ連やその衛星国の情報として流されたものは、有能なうそつきどもが紡ぎ出した偽情報のつぎはぎだった。
ヘルムスは後に、ソ連と東ヨーロッパに関するCIAのファイルに蓄積された情報の少なくとも半分は間違いだった、と認めた。
ベルリンとウィーンにあるヘルムスの事務所は偽情報の製造工場だった。
事務所には事実と作り話を区別できる職員も分析官もいなかった。
偽情報にふりまわされる諜報機関という問題は、その後、アメリカのインテリジェンス(諜報)につねにつきまとう問題となる。
上巻 P.37

とまぁ、こんな感じで、報告される情報の何が真実なのか、
さっぱりわからずに振り回されまくっている。

まぁそれは昔の話で今は素晴らしい組織として建て直されているのだろうと思いきや、
以下の話から割と最近でもまだグダグダらしいことが見て取れる。
まぁ、だからと言って諜報機関を持たないという選択肢はないのだと思うけれど、
CIAが常に信頼された組織ではないということ。

第二次大戦中は「イギリスの優れた諜報システムにわれわれは盲目的に、全幅の信頼を置いて頼るはかなかった」とバンデンバーグはいう。
しかし「これからはアメリカも世界を見る目-対外諜報-を外国政府に物乞いするようなことをしてはならない」。
とはいえ、CIAはいつも白分たちに理解できない国や言語への洞察となると、外国の情報をあてにしてしまう。
バンデンバーグは最後に、アメリカ人スパイの専門的な集団を育成するには、少なくともさらに五年を要するだろう、といって締めくくった。
この警告はそれから半世紀後の一九九七年に、CIAのテネット長官が、ほぼその言葉通りに繰り返すことになる。
しかもテネットは二〇〇四年に辞任する際にも再度、同じことを口にした。
完全なスパイ組織は、いつも五年先の地平線のかなたにある、というわけだ。
上巻 P.45

なかなか満足いく組織にはなれないようだ・・・
まぁ、人材育成も難しそうだし、下手すりゃ二重スパイを送り込まれるし、
人材は頭痛い問題なんだろうなぁ。


唯一うまくいった方法論、それは選挙資金のばら撒き!

まぁでもうまくいったこともある。
それが金をばら撒いて選挙を操作すること。
資本主義 VS 共産主義、あるいは独裁主義にたいして、
民主主義および資本主義の代表として支援する、それがアメリカであり
そのための工作をしたのがCIA。

選挙で金がものをいうのはどこの国でも一緒なんだな。

数百万ドルは、イタリアの政治家やバチカンの政治組織である「カトリック行動」の神父らに配られた。
現金を詰め込んだスーツケースが、四つ星のハスラー・ホテルで手渡された。
「われわれとしてもできればもっと洗練されたやり方でやりたかった」とワイアットは語っている。
「選挙に影響を与えるために黒い袋を渡すなどというのは、あまり惚れ惚れするようなやり方ではなかった」。
しかし効果はあった。
イタリアのキリスト教民主党はまずますの差をつけて勝ち、共産主義者を排除した政権を樹立した。
同党とCIAの間の良好な関係が始まった。
CIAが現金の詰まった袋で選挙や政治家を買収するしきたりが、イタリアやその他の多くの国で繰り返されるようになり、その後二十五年もの間、続くことになった。
上巻 P.51

こうしてアメリカに首根っこ掴まれた政治家が国の中枢に入り込んでいくわけだ。
ちなみに日本もそのばら撒き作戦の成功事例の一つ。

CIAには政治戦争を進めるうえで、並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。
それは現ナマだった。
CIAは一九四八年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。
しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。
上巻 P.177

岸信介はアメリカの支援のもとトップに上り詰めた男。
そして政治資金をばらまく以外に、文化の浸透のために雑誌を創刊していたりするというのは驚いた。

これは言葉の戦争だった。
小さな雑誌やペーパーバックの本、高尚なテーマの会議などをもって戦われる戦争だった。
「私が担当していた文化自由会議の一年間の予算は、おおよそ八十万ドルから九十万ドルだった」とブレイデンはいう。
これには、高級月刊誌『エンカウンター』の創刊に必要な資金も含まれていた。
この雑誌は四万部以上は売れなかったが、一九五〇年代にそれなりの波紋を巻き起こした。
これは、CIAに新しく入ってきた文科系専攻の人間にうける、使命感を刺激する仕事の一つだった。
パリやローマで小さな新聞や出版の仕事をする−−アメリカの諜報員が新米時代に海外で送る暮らしとしては、結構なものだった。
上巻 P.63

新聞や出版の仕事をCIAの職員がやっていたとは!
でもこれなら、ちょっとお気楽そうだな・・・。


中国や朝鮮に対しては失敗続き

北京は後に満州での成果を放送した。
それによると、CIAは二百十二人の外国人工作員を降下させたが、このうち百一人は殺害され、百十一人は捕獲された。
上巻 P.96

スパイというのは捕虜扱いされないらしいね。
しかし、戦争時に諜報機関が偽の情報に踊らされたり、
自らの情報がだだ漏れだったりすると、当然シャレにならない。
でも、そんなシャレにならない状態だったっぽいんだよね、これ読むと。

朝鮮では、CIAはあらゆる面で失敗した。警告を発することにも失敗、分析を提供することにも失敗、そして採用した工作員たちを向こう見ずに展開したことの失敗など。その結果、アメリカ人にもアジアの同盟国の人々にも、何千人という犠牲を出した。
三十年後、アメリカの元軍人は、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んだ。CIAではこの戦争のことを意図的に忘れようとしている。幻のゲリラに武器をつぎ込んだ一億五千二百万ドルの無駄遣いは、会計簿のうえではうまく帳尻を合わせられた。朝鮮戦争時の情報の多くが偽か捏造であった事実は、伏せられたままになった。一体どれくらいの人命が失われたのかという問題も、問われもせず、答えも出されなかった。
上巻 P.97 - P.98

スターリンが死んだ時、CIAでは・・・

「一九四六年からこの方、専門家と称する連中がみんな、スターリンが死んだとき何が起きるとか、われわれが国家としてどう対処すべきだとか、あれこれ言い募っていた。さて、彼は死んだ。みんな政府内部のファイルをひっくり返して、何か計画が作られていたか調べてみたが、骨折り損だった。計画は何もなしだ。彼が死んだ後、どんな変化が生じるかさえ定かには分からない」と噴りをぶちまけた。
上巻 P.112

それまで散々色々調べていたのに、いざとなると何もわからない。
大統領の立場だったらお前らアホか!と憤る気持ちはわかるけど、
このグダグダ感には、お前らCIAとか言ってるけど普通のサラリーマンなんだな、みたいな
親近感も感じてしまう。
なんか非現実的な組織のイメージだったけれど、それは誤解で実に人間的だ。


核戦争の危機はリアルに存在していた

一九五三年八月、ソ連が最初の大量破壊兵器-熱核爆弾と言えるものではなかったが、それにかなり近いもの-の実験を行った際、CIAはまったく手がかりを持たず、予告もできなかった。六週間後、アレン・ダレスがソ連の実験に関して大統領に説明したとき、アイゼンハワーは遅きに失する前にモスクワに全面核攻撃を加えるべきかどうか思案していた。
大統領は「決断するときが迫っているようだと言い、「いまわれわれが直面しなければならない問題は、こちらの持てるすべてを敵に一挙にぶつけるかどうかだ」と語った。この発言は、秘密扱いを解除されたNSCの会議録に残っている。とりわけ、ソ連の保有する核兵器が一発なのか千発なのかアメリカ側に知るすべがないときに、「敵の能力におびえて震えるなどは無意味なことだけに、大統領の問いかけは恐ろしいものだった」。
上巻 P.115

ここでもまったく手がかりを持ってなかった、というのが衝撃。
そしてそれだけ不正確な情報の中で意思決定を迫られる方にしてみれば、
CIAなんていない方がシンプルでいいんじゃないか、と思ったり。
結果的には起こらなかったが、当時検討されていた可能性の中に、核によるモスクワ攻撃があったという事実、
結構人類はスレスレの所で生きていたんだな。
そしてこんなことはこれからもあるのかもしれない。
そう考えると、恐ろしいな。


バカな上司が改革しようとするとこうなる

本当に、CIAも普通の会社なんだな、と思ったエピソードがこれ。

挫折秘密諜報機関としてのCIAの崩壊は、ヘルムスが本部を去り、ジェームズ・シュレジンジャーが着任した日から始まった。シュレジンジャーはCIA長官を十七週間務めた。その間に、この秘密機関から五百人以上の分析官と一千人以上の人員を追い出した。海外勤務中の職員は無署名の暗号電報で解雇を通告された。これに対して、シュレジンジャーは命を狙う匿名の脅迫を受け、自分の警護のために武装警備員を雇うはめになる。
下巻 P.116

親と上司は選べない。
上司は必ずしも優秀とは限らない。
無能にやる気がないとも限らない。
無能でやる気のあるやつ、これが結構厄介。
しかし、本当にこの本はCIAのイメージ崩れるわ。
特に予備知識もない日本人が読んでもそう思うくらいだから、
本国では結構衝撃だったんだろうな・・・。

そして組織が硬直化してくると、採用が平準化していく。
お利口な人たちが集まって、綺麗な組織を志向しだす。
この辺も会社と同じ。ダイバーシティや仕事へのロイヤリティをどう担保するのか。

何年かの問に、CIAは「少しばかり変わった人、常軌を逸した人、スーツとネクタイの似合わない人、協調性に欠ける人を雇う気がますますなくなっていった」とボブ・ゲーツは言った。
「心理テストでも、ほかのテストでもそうだが、われわれがやっているような種類の試験では、才気煥発だったり、途方もない才能と特有の能力があったりするかもしれない人が合格して、CIAに入るのはとても難しい」。
CIAは、文化的近視眼のおかけで世界を読み誤った。
その局員で、中国語、朝鮮語アラビア語ヒンディー語、ウルドウ語ないしペルシャ語-地球上の人口の半分に当たる三十億人が話す諸言語-を読み話せる者は、ほんのわずかしかいなかった。
一度でもアラブのバザールで値切ったり、アフリカの村を歩いたりした者は、ほとんど全くいなかった。
下巻 P.308

そして人は一朝一夕には育たない。
人材戦略を間違うと10年遅れる。
まさにそんな感じのお話。

といった感じで次から次へと等身大のCIAが明らかになっていく。
本書の衝撃を一言で語るならまさにこんな感じ。

何よりもまずアメリカの読者が驚いたのは、小説や映画そしてその他のノンフィクションの書物でも再三描かれてきた「万能のCIA」が、実はまったくの幻想だったことである。
下巻 P.380

万能な組織なんて、どこにもないんだな。

CIA秘録上

CIA秘録上

CIA秘録 下

CIA秘録 下

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

教科書にはないリアリティ、読むとやる気出る。 三枝匡/V字回復の経営

実際の自分のコンサル経験などを元にした
ノンフィクションに近いフィクション。
経験に基づいているので、再生までの道のりが結構リアル。
その辺の生々しさが教科書とは違う迫力があっていい感じ。

で、名著として知られるこの本が新装版として装いも新たに登場。

もともとこの話のベースになったクライアントがどこかは明かしていなかったのだけど、
元になった事例はコマツなんだそうな。

とにかく実践的な話が満載なので、このシリーズは本当にお勧め。



閉塞感だらけのだめ組織

身近なところに大混乱しているダメ組織があるのでいちいち身に染みる。
自分の事業に関してはこうなっちゃダメなんだよな、と気をつけながらやっていこうと思ったのだけど、
ダメ組織に関してはことごとく当てはまるから驚く。

組織の「政治性」は「戦略性」を殺す力を持っている。
政治性は、個人の利権・利害の混入、過去の栄光への執着、個人的好き嫌いなどによって生まれ、「正しいか正しくないか」よりも「妥協」重視の組織風土を醸成する。
P.31

政治性の根っこがどこにあるのか、それによって対応方法も変わるのだろうか。
利権、利害の混入、辺りはものすごく怪しい。
あと、意思決定者が不明瞭になり、どちらが主導権を握るかのパワーゲームみたいになるパターンもあるよな。
いずれにせよ、現場は疲弊する。まったくもって「正しいか正しくないか」の話なんてできない。

ダメ会社というのは、機能組織ごとに被害者意識を蓄積させるのですね。
そして、会社全体の赤字や負け戦なんて、自分のせいではないと全員が思っているんです。
しかもここ数年、なんとか状況を打開しようと、リーダーシップ不在のまま中途半端な組織変更や人事異動が頻繁に打ち出されてきました。
社員は皆うんざりしているのです。
P.80

このうんざり感とか被害者意識とかを変えさせるのは本当に大変。
被害者どころか、お前ら加害者なんだよ、って気がついて、
状況を自分事にできると劇的に変わるんだけど。


改革の障壁

こういう泥臭い話をしっかりととりあえげてるところが、リアルなんだよな。
逆にこの辺がわざとらしく、物語っぽいと感じる人がいるとすれば、
その人は人のごちゃごちゃに巻き込まれたことない人なんだろうなぁ、と思う。

そして改革はする方も抵抗する方も、真剣勝負。
「切るべきガンは切る」、切ることで本気度を示すってのが必要なときもあるよな。

強度の面従腹背
言い放しで構わない野党の強みを利用し、陰でかなり行動的に批判をばらまくので、それが改革者にも聞こえて関係がおかしくなる。
米国なら早々に退職ないしクビだが、日本ではそこまでいかずに居残るのが一般的。
そのため改革が成功しても新組織に同化せず(あるいは同化を許されず)、会社の隅でおとなしくしているしかない存在になる。
日本企業には、幼児性が強く甘えている社員が多いため、自分がどんな悪作用をばらまいているか自覚していない人もいる。
改革の成果を見てシマッタと思う(感情を先行させたために論理判断を間違えたと後になって気づく)人もいるが、感情的しこりが残っているので修復は難しく、後悔しても遅い。
そうなれば、もともと行動的なタイプのはずだからさっさと転職して楽しい人生を探せばいいと思うのだが、それほどのガッツもなく日陰で恵まれない人生を過ごす人も多い。
改革者の事前のコミュニケーション不足、稚拙なシナリオ、詰めの甘さ、急ぎすぎなどが確信抵抗型の出現リスクを高める。
お互いの不幸だから双方ともきちんと正面から話し合う努力をして、違いを理解し、早い段階でせめて中立型への移行を図ることができればいいが、現実にはそう簡単にいかないことが多い。
しかし改革者が遠慮すれば改革者が殺される。
この類型の人が否定的言動を続け、前向きな人々をくじけさせ、改革の積み木を崩そうとするなら、断固として「切るべきガンは切る」の蛮勇が必要になる。
P.88

分業による当事者意識の低下

事業が大きくなり、人が増え、分業体制が進めば進むほど、
当事者意識が低くなっていってしまう。
でも分業体制を敷き効率化していかないと事業の規模が大きくならないのも確か。
その辺の規模と組織のバランスってのは本当に難しい。

手作りの椅子をまるごと一つずつ組み立て、それを自分で売った職人は、自分の作った椅子で顧客が満足してくれたかどうかに敏感だ。
お客に嫌われたら、その痛みは自分の痛みである。
そこで職人は技術を磨き、モダンな椅子のデザインを自分で工夫し、商品に新しい感性を入れようと自分で努力する。
しかし椅子の世界にもアダム・スミスの分業論が導入され、工場では毎日、椅子の「脚」だけしか作らない職人がいるようになった。
彼らは自分の作った脚が他の職人の作った部品とピタリと合うように、会社の決めた部品規格や品質基準に組織ぐるみで従うことを求められた。
人が機械のように働くことが重要になった。
そうなると個人はモノ作りの楽しさから遠ざかってしまう。
また顧客の不満を自分の痛みとして感じ取る度合いも低くなる。
完成した椅子がいくらで売れるかよりも、自分は賃金さえもらえばいいという人が増える。
このメタファー(比喩)の意味は重要である。
産業革命以来、工場労働者に起きたこの現象と同じことが、二十世紀後半、日本企業のホワイトカラーに起きているのではないか。
P.127 - P.128