ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア

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出版業界のいびつな構造をあぶり出し、警鐘を鳴らし続ける著者の代表作。小田光雄/出版社と書店はいかにして消えていくか

本書は80年代、郊外店の出店ラッシュから90年代の書店大型化、
それに伴い取次の売掛金、出版社の社外在庫(市場在庫)は、
さながらバブルのように膨張し、その崩壊が迫っている、という状況を
各種資料を駆使して描き出す。

取次ぎと書店の経営状況を詳らかにして、
この出版不況の打開策の1つとして再販制度の廃止を提言するなど、
出版業界でおおっぴらに語られることのなかったテーマを、
出版業界の中から投げかけたことは非常に価値がある。

ただ、著者によればそれらは黙殺されている、とのこと。
確かに、誰かが強烈なリーダーシップを取って、
あるいは慣例を無視して、ドラスティックな変革が起きるような業界ではなく、
その後の業界全体の変化の無さへの失望はあるのだろうが、
こういった本があることで、一部の問題意識を持つ人には届く。
現在この本が入手できることが出版分化の豊かさでもあるな、と思う今日この頃。



市場規模の推移に対して

書店坪数は四・六倍、総在庫は六・七倍に増加しているが、書店売上は七五年八〇〇〇億円、九五年一兆八〇〇〇億円と二倍強にすぎない。商品回転率は七・八回転から二・五回転に低下している。
P.20

市場が縮小するなかで売場面積だけが増える不思議な現象は出版流通の特殊性に原因がある
(中略)
書店の売場面積が増えることは、同時に返品される可能性の高い出版社の社外在庫が大量に出回ることを意味している。売場面積の増加にあわせて返品率は上昇の一途をたどっている。
P.21

出版バブルと称したのはこの辺の数字の動きに関して。
オーバーストア、すなわち店舗数が過剰になっているのではないか?
小規模な書店が潰れる傍ら、大手チェーン店の郊外型店舗の増加や、
大規模店舗の開業が進む。だが、売場面積の増加に対して、売上は伸びず、
効率だけが悪化している事態を招いている。

九六年には五三〇〇億円で、出版業界の全売上の二〇%のシェアを占めています。コンビニエンスストアの売上はほとんどが雑誌売上だと考えられますから、雑誌全売上の三三%に及んでいる。しかもコンビニエンスストアの出現は各社七〇年代前半ですから、四半世紀で書店とは別のまったく新しい膨大な雑誌販売市場が形成されたことになります。したがってオイルショック以後の出版物の売上増加はコンビニエンスストアの寄与が大変大きい。八三年から九六年にかけて、出版販売金額は一・七倍にしかなっていない。資料8をみていただければわかりますが、コンビニエンスストアの売上は10倍になっています。だからコンビニエンスストアルートだけが売上を伸ばしたのであって、書店と坪数は驚くべき増加をみたが、売上はそれに比例して上昇するどころか、シェアを落としていることになる。
P.35

取次の保証金問題や開店口座

なぜ大手、大規模の開業は進むのに、小規模書店の出店は進まないのか。
そこら辺は取次との取引条件の問題が潜んでいる。
出版社と取次の取引条件に関しても差別取引の存在が流対協によって指摘された歴史は
湯浅俊彦『日本の出版流通における書誌情報・物流情報のデジタル化とその歴史的意義』
においても触れられていたが、ここで語られるのは書店と取次の条件に関して。

本は委託販売制度なので店舗には商品を預けている形になる。
ゆえに、取次は書店に対して一定の保証金を求める。
これだけ聞くと理に適っているように思われるが、実態としてはあまり機能していない。

売場面積が合計で1000坪クラスの書店は今ではザラにある。一〇坪で保証金五〇〇万円とすると、一〇〇〇坪では五億円になります。そんな高額の保証金を払って出店できる書店はおそらく存在しないと思います。
P.42

結局、既存の取引があり、規模もある大手チェーン店は保証金を積むことなく、
新規の開業が可能になっているのではないか、と示唆している。

さらに、その新規の書店には棚を埋めるだけの在庫が必要だが、
開業時に全商品の支払いができる書店など存在しない。
開店時の商品代金は開店口座として別勘定で管理され、支払いは数年間猶予され、
その後分割払いのような形で開店時の商品代金を支払っていく仕組みが用意されている。
取次が金融機能を果たしているというのはこういうこと。

新規出店の場合、取次から出品依頼がきます。一年長期とか常備という条件で。取次はこのようにして開店商品を揃えます。そして取次はこの開店商品を開店口座として別勘定で何年か据えおくわけです。
P.44

結果、取次の売掛金は増大していく。
大規模な書店が出店すればするほど、その金額はうなぎのぼりに
上がっていくことは容易に想像できる。
これも書店バブルとして指摘されている危険な兆候。

九〇年代に入って、大店法規制緩和により、書店の大型化が進んだため、出版社はさらに社外在庫が増え、取次は売掛金のさらなる上昇をみる。しかし九八年は史上最高の書店の閉店を記録しそうなので、書店バブルがすでに崩壊しだしている。
その閉店は八〇年代の負債の少ない商店街の書店ではなく、大型書店、郊外店も含まれるため、不良債権の取次にはね返る可能性が強い。さらに懸念されるのは、取次の売掛金より書店在庫の方が少ないのではないかということ。そして書店の史上最高の閉店とは、いいかえれば史上最大の返品ということになり、取次、出版社を直撃する。
P.73

想像するだに恐ろしいが、こうした大規模店の倒産が起きてしまうと、
その返品は取次と出版社を直撃し、出版社の連鎖倒産など恐ろしい事態に繋がりかねない。
市場在庫が一気に返品された場合、中小零細出版社の資金繰りが追いつかない危険がある。


出版業界における近代の終焉

七〇年代は同時にメディアミックスの角川商法の時代であり、郊外店、大型店、コンビニエンスストアの出現という現代的なものの始まりによって、近代流通システムが異化されようとしていた。それは本をめぐる環境の変化をも意味しています。
本がもはや文化や教養の象徴ではなく、一般の消費財と同じようなものになっていく過程だった。やはりこの時代に出版業界の近代は終わっていたのではないか。
この対談のために、本棚から資料として本を三冊持ってきました。
するとこれらもみんな七〇年代後半に出されています。
紀田順一郎 『読書戦争』     七八年
小汀良久  『出版戦争』     七七年
寺林修   『出版流通改善試論』 七九年
『読書戦争』は著者・読者、『出版戦争』は出版社、『出版流通改善試論』は取次と様々な立場から、七〇年代における出版の危機について発言しています。いわれた七〇年代の出版業界の動向に対して、それぞれの立場からの危惧の表明となっています。それらを分析してみれば七〇年代における出版業界の問題が浮上しますし、年表に対応するものとなるでしょう。
P.84

著者の指摘は、とてもわかりやすいし、確かに大きな変革期だったのだと思う。
近代の終焉、というのもなるほど、と思った。
ただ、著者を含め、出版業界全体に感じる風潮としては、
この近代を引きずっている人が非常に多いということ。
近代へのノスタルジアを感じること自体は悪いことではない。
自分を含めみんな本が好きでこの業界に関わっているわけだし気持ちは良くわかる。
でもこの変化を嘆くのではなく、現代においてどのように文化や教養としての本を
しっかりと出版し、流通させ、ビジネスとして採算にのせるか、
そこに立ち向かわないといけないのだと感じる。

ただそれは既存のやり方だとものすごく難しいことになってしまっているのも事実。
流通の仕組みが膨張し、効率化を求められる中で、
大規模な、ある程度の部数が売れるものじゃないと
採算が取りづらくなってしまっているのは確か。
小部数の人文書も成立していた近代モデルは崩壊している訳だから、
既存システムによる改善の模索に加え、積極的に新たな読者の開拓をし、
彼らに本を届ける仕組みを模索することが重要になる。
Amazonに代表されるネット書店の隆盛や電子書籍など、流通の変化は起きている。
これらが救世主だとかお気楽なことは言えないけれど、
変化にはチャンスもあるはずだ、と前向きにトライしていきたい。
こういった新たな変化に対して、現状を嘆き、昔を回顧する言説が多いのだけど、
それじゃ何も解決しないからなぁ、と学ぶほどに思うのです。

電子書籍において本の発見されやすさ=ディスカバラビリティとかが
取り沙汰されているわけだけど、そんなもん紙の書籍だって一緒。
そのはずなのに、あまり明快な方策は出てこない。
これってやっぱりこの業界があまりにも自分たちの商品について
考えてこなかったからなんじゃないのか。
出版社、取次、書店、すべてが機能別に分業されて別々に進化していく中で、
思考と試行の枠組みも限定的だったように感じる。


出版統制に関して

こういった時代が、ついこの前まであったってことは忘れないようにしないと。

日配の設立によって、奥付に配給元である日配をのせなければ流通できなくなり、完全に出版社も統制下におかれることになった。
P.148

再販制度は誰が望んだものなのか?

どうして書籍と雑誌が再販に指定されたのかよくわからない。化粧品などは業界あげての陳情等があったといいますが、出版業界にはそんな族議員がいるわけでもありませんから、その手の政治運動によっているとも思われない。考えられる要因は二つしかない。教科書等の公的側面が拡大されたことと、それにつながる日配時代からの官僚的な発想が作用していたのではないかということになる。何かはっきりした制度、あるいは思想があって始まっていることではないという気がするし、出版業界の法的管理という側面もあって導入されたのではないか。
だから再販制というのは少なくとも出版業界の努力によって自らの手で獲得したものではない。
P.156

この辺の導入の経緯は正直よくわからない。
確かに再販制度が無い時代にも本は存在し流通はしていた。
価格の自由度が無いことで在庫を捌きづらいという負の連鎖はわかるが、
これが無ければ小部数の人文書が成立しやすくなるのだろうか。
そもそも近代は崩壊している。
現代において再販制度を廃止することが零細出版社を救うことになるのかは
まだ自分の中では納得できていない。
再販制度がいびつなことはわかるけれど、守っているものもあるのでは、と思ってしまう。
ごく一般的なビジネスのロジックとしては価格の自由度は価格競争につながり、
結果的に体力のある大手を利するだけになってしまうリスクもある。

だからこの読者への直販も含めて、数年前までは再販制が廃止されたら、ポスト近代流通システムへ移行せざるをえないと考えていました。必然的に正味は下がっても買切制になる。買切制になれば書店も仕入に真剣になりますし、金太郎飴ではやっていけないから差別化、専門店化を計るところがでてくる。そのことによって仕入のプロが書店でも必要となりますし、私たちのところの本は必ず需要が起きると思っていた。再生の可能性は再販制廃止にありと。
P.209

出版された当時の考え方であり、今でもそうお考えなのかはわからないけれど、
2014年現在、個人的にはこの可能性をあまり感じない。


ちょっと残念なところ。

そしてこの本が素晴らしいのに、一方でとても残念なのは、
過去を懐かしみ、現状を受け入れきれないまま、最後まで後ろ向きなところ。
例えば永井龍男の全集がブックオフで100円で売られていて、全部で1200円だったということに衝撃を受けるくだり。

もし永井龍男がこれをみたらどう思うか。何十年もかけた文学の営為のすべてがわずか一二〇〇円。ものすごい文学のデフレ現象が起きている。埴谷雄高の『死霊』の一〇〇円もしかりです。つくづく彼らはまだこうした風景をみないで死んで良かったと思いました。
私の眼からみれば荒涼たる風景としか思えない。文学、思想、いや文化そのものを馬鹿にしている。古書店も含めて近代出版界が営々として積み重ねてきた集積を否定することでなりたっている。つまりブックオフというところの価値基準は新しいか古いか、きれいか汚いかの価値基準しかない。古いというだけで一〇〇円棚に置かれ、新しいというだけで半額の値段がつけられる。
P.202

本好きにとってショックなのはわかる。
でも本は新刊で販売される際に文化的な価値があるから高額で
くだらないから安い、という値付けがされている代物でもない。

従来の古書店の価格付けも文化的価値というよりは需給バランスによる価格設定。
その中で何がどれだけの希少価値なのか、と言う商品知識が重要で、
必然的に職人的な世界だっただけ。
参入障壁を壊し、再販制度を逆手に取ったブックオフのビジネスモデルは、
本好きには衝撃で許しがたいのかもしれないけれど、
出版業界内部からは出てこないよくできたビジネスモデルだったとは思う。
感情的な否定だけしててもしょうがない。

明治の出版王国であった博文館のことを思い出してください。博文館はそれこそ出版社、取次、書店を総合していたのにもかかわらず、消滅してしまったといっていい。その理由は買切制にこだわったことも原因だとされていますが、現在では逆に出版社は再販制と委託制によって消滅の危機を迎えようとしている。しかしこんなことをいうと怒られますが、私たちが消滅して読者が困るかといったら、ほとんどそんなことはない。それにもうすべての本は出されてしまったという気もする。過去一世紀に出版された本を再読すればそれですむかもしれない。それはそこそこ蓄積されているわけだから、一〇年や二〇年はそれで過ごせるんじゃないか。新しい本ばかり求めるのではなく、古い本をリサイクルさせたほうが読書としては健全なのではないか。新しい本の量ではなくて、古い本の質を求めたほうが楽しいかもしれない。
P.229

これは自分たちの存在を卑下しすぎだと思う。
大多数は困らない。そりゃそうだ。
でも文化的な価値があると信じて小部数でも刊行している人文書は、
そもそも大多数に向けて作ってるんじゃないんだから、
目的を取り違えちゃいけないと思う。