ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア

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じぶんなんてものは、最初から存在してないのよって話。 土屋淳二/モードの社会学 ファッション帝国の裸のプチ王様

社会学の本。
この本はロジックの密度が非常に高い。
無駄な補足説明無く、緻密に書かれている印象。だから結構読むの大変でした・・・。

癖のある分野だから、好みははっきり別れそうだけど、
たまに触れると刺激になる。

モードの社会学:上―ファッション帝国の<裸のプチ王様> (早稲田社会学ブックレット)

モードの社会学:上―ファッション帝国の<裸のプチ王様> (早稲田社会学ブックレット)


自分とは非在的存在

じぶんという本質的な存在、普遍的かつ不変的な自己などないからヴェールを繝う、というのが本書の見解である。自己を包むヴェールの下には何も存在しないということは、そもそも包むべき自己など最初からない、ということである。あるのは、ただヴェールのみである。あえていうなら、“じぶん”とはヴェールに覆われるだけの中空の闇としかとらえようのない〈非在的‐存在〉といってよいだろう。存在しないものを存在せしめ、不可視なものを可視化するのがヴェールであり、ファッションである。裸の王様の不思議な衣装のように。
P.2-P.3

もうなんか社会学的なものに触れるのが久し振りすぎて、何とも言えない懐かしさを感じる。
自分なんてものは存在しないのだ。
そして、ファッションは興味が無い人、反感を持つ人たちですら、
ノー・ファッション、アンチ・ファッションといった形で、取り込まれる。
ファッションの世界からは興味あるなしに関わらず逃げ出せないんだな。


流行回帰はオリジナルとは似て非なるもの

歴史や時代というコンテクストのなかで生きるファッションの“意味”は、厳密にいって再生不可能である。九〇年代の若者が七〇年代の復古ジーンズにむけるまなざし、そこから読みとる意味はあくまで九〇年代のものであって、七〇年代のものではありえない。
P.30

これも言われてみればその通りだなぁ、と納得。


かたち、機能、意味

ものごとには意味がある――。この表現は正しくない。ひとがものごとに“意味をあたえる”というのが正しい。ものごとは、ひとの“まなざし”なくしてはただ沈黙するのみである。まさにひとの“
まなざし”によって、はじめてものごとはメッセージを発し、語りだすだろう。同様に、いわゆる「衣服は語る」という表現も正確ではない。ひとが“まなざし”をもって「衣服に語らせる」が正しい表現といえる。
P.67

まなざしの数だけ意味があるってことでもあるのかな。

で、かたち、機能、意味がモードを形成する、って話。
機能は目的との関係性においてしか存在しない、ってのも確かにってお話。
なんか簡単で当たり前だと思ってたことをこねくり回す学問なので、
性に合わないと辛いと思うのだけど、たまに向き合ってみると気づきや学びが多い。


身体の所有権

じぶんの皮膚が操作可能な対象であるためには、すくなくともそれを可能とさせる条件が必要となるだろう。つまり、自己の身体を“可処分なもの”とする自由と自己決定権が、操作する主体である自己意識において保証されていなければならない。いいかえるなら、自己はみずからの身体に対する“
所有権”を主張することになる。じぶんの体は、たとえそれが親からあたえられたものであったとしても、じぶんの所有物であるかぎりにおいて、それをみずからの意思で操作しうる可能性が開かれてくる。ようするに、皮膚が自己によって操作されるという事態は、操作主体である自己と操作対象である皮膚が切り離されていてはじめて成立可能となる。したがって、そこでの皮膚は、自己から分離されている以上、もはや自己そのものの存在を構成する本質的要素とはなりえない。
P.98-P.99

まぁ、ピアスや刺青、美容整形の類の話もそうだけど、
身体をどれだけ可処分なものと捉えるかってのは
これからどんどん変化していきそうで面白い。
義手義足みたいなのが進化して、そっちに変えたほうが便利な世の中になるかもしれない。
内臓も人工的なものに置き換わっていくかも。
技術の進歩に合わせて人の感覚も変わっていくのかな。
頭では理解できるけど、個人的には、身体髪膚之を父母に受く、みたいな儒教道徳が好き。

モードの社会学:上―ファッション帝国の<裸のプチ王様> (早稲田社会学ブックレット)

モードの社会学:上―ファッション帝国の<裸のプチ王様> (早稲田社会学ブックレット)