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われわれ自身が、書物である! 長谷川一/出版と知のメディア論

出版業界論というよりは、メディア論と言う体裁なのだが、
所々に出版業界に関する話も出てくるし、
脚注も豊富で勉強になる。

とりあえず、メモ書き中心に。

出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生

出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生


出版学会って・・・

日本出版学会」が正式発足したのは一九六九年である。その草創期からかかわり、中心的な役割をはたした出版研究者のひとりとして箕輪成男があげられる。箕輪は長く出版経営にあたりながら出版業界を主導したのち、学界に転じた。それまでの出版論を「かくあるべき論」であると批判して、定量的手法にもとづく出版論を展開した。とくに一九八〇年代前半の箕輪の著作は日本における先駆的なものといってよく、その意味で最大の敬意を払われるべき先行業績のひとつであって、本書もまたその基盤に大きく依拠している。
P.8

箕輪成男、すごく気になる。
そして箕輪がこんなに真っ当なこと言ってるのに、
結局今の出版業界は「かくあるべき論」が飛び交うばかり。
定量的手法と、それを支える基盤の整備にもっと取り組んでよいはず。


メディアとは

「メディアとは、社会がそのさまざまな欲望や権力の布置のなかで、自らの生きる世界を構成していく関数として物質化され、制度化された形態」にほかならない。しかし、巷間にあふれるメディアをめぐる言説の多くは、こうした見方とは対極ともいえる位置からなされている。いくつものヴァリエーションが存在するものの、技術の進歩がメディアを発達させ、ひいては人間や社会を発展させていくという観点に立脚しているという点において共通している。
P.16

確かに技術に立脚したものではないな。
影響はもちろんあるのだけど、それが主じゃない。


われわれ自身が書物である

「書くことを内面化した人は、書くときだけでなく話すときも、文字に書くように literately 話す。つまり、かれらは、程度のちがいはあれ、書くことができなければけっして知らなかったような思考やことばの型にしたがって、口頭の表現までも組織しているのである」。われわれの思考それ自体が書物の文化に枠づけられたものである。われわれ自身が書物であるということは、このような文脈においてである。
P.46 - P.47

書くことができなければ知らなかった思考というのはありそう。
書くように考える側面はある気がする。
ただ、本当に本読まん人の頭の中とかどうなってるんだろ。


本は貴重

ボローニャでは、法律書の本を転写するのに一〇ヵ月から一五ヵ月かかり、挿絵なしでも二〇ないし六〇ボローニャーリーヴル livres bolonaises の費用がかかったが、当時の教授の年収は一五〇ないし二〇〇ボローニャーリーヴルであった」。
P.81

1冊の本が大学教授の年収の1割から3割。
それはとても貴重な存在。
今、もの凄く安く、簡単に知識にアクセスできることを幸せに思わなければいかんな。

大学にとって書物は絶対不可欠なものだった。とりわけ公認原本はなによりも重要な財産だった。パドヴァ大学は一二六四年、学則に「原本なくして大学なし」と記しているほどである。書物は学問の基盤であり、それを筆写したり読んだり暗誦したりすることは、知識を得るための手段などというよりも、中世スコラ学にとって本質的な営みだった。
P.82

アメリカの話

長くランダムハウス社で書籍編集長を務めたジェイソン・エプスタイン(Jason Epstein)はこう指摘する。「一九八九年から一九九六年までのあいだで、ベストセラーの上位三〇点が書籍総売上高にたいして占める割合は、小売の増加と同じくほぼ倍になった。ところが、ほぼ同じ期間のベストセラーー〇〇点のうち六三パーセントが、たった六人の作家 ー トム・クランシージョン・グリシャムスティーヴン・キング、ディーン・クーンツ、マイケル・クライトン、ダニエル・スティール ー によって書かれている」。このブロックバスター化の進行は、それまで独立企業であった一般書出版社がコングロマリットに組み込まれ、書店が大規模チェーン店に組織化されていく過程とも重なっている。
P.174

個人的に気になったのでメモ。


出版流通と人文書

また、内払い(条件払い)の制度は、新刊点数の異常ともいえる増加を招く直接の原因となっている。出版物の売れ行きが悪くなった出版社がまず行うことは新刊点数を増やすことだからである。これによって、取次からの当座の入金金額を確保することができる。しかし、二ー三ヵ月たって新刊の返品時期を迎えると、大量の返品が戻ってくることになる。下手をすると返品分の金額のほうが新刊分を上回ることもある。それを避けるため、出版社はますます新刊刊行に拍車をかけることになる。さらにいえば、このように新刊分か翌月に内払いされるのは、すべての出版社にたいして等しく行われるわけではない。それは、ほかのさまざまな業界慣行と同じく、あくまで取次と出版社との力関係で決まるのであり、それでなくとも複雑なカネの流れを、よりいっそう面妖なものにしている。以上のことから、委託・再販制にもとづく出版社-取次-書店による日本の「近代出版流通システム」は、基本的には大規模出版社が発行するマス雑誌を全国津々浦々において同一価格で同時に販売することに照準して組織されたものであることがわかる。毎週毎月刊行されるマス雑誌が安定して売れていく市場状況を前提としたうえで、書籍、とりわけ「人文書」は、「ある一定の市場在庫と安定した書店数と新刊点数、ロングセラーによって利益をあげる【産業=引用者註】構造」にあった。
P.253

そして最近人文書の値段がかなり上がってきている気がする。
この売れない時代に出してくれただけでありがとう、って気持ちはあるのだけど、
5000円とか6000円/1冊みたいな値段になってくると躊躇ってしまう。
かなり本を買う方だとは思うのだけど、それでこの体たらくだから、普通の人は推して知るべし。
まぁ、すでに人文書読んでる時点で普通の人ではないかもしれないけど。


日本初の郊外型書店に関するメモ

一九七五年一一月に名古屋の三洋堂書店が出店した東郷店(愛知県愛知郡東郷町)であるといわれている。出店の経緯について、創業者である加藤一 (故人)はこう語っている。「東郷店は全国で初めての郊外店といわれているが、そんな意識はまったくありませんでした。減反政策で半分水につかった田圃以外何もない場所で、東郷高校の生徒が夏も冬もじっと我慢してバスを待っていた。それを見て可哀想に思ったのでしょう。土地を安く提供するから店を出してくれないかと、そこの地主さんたちが何度も何度も頭を下げに見えたのです。全く売れそうにない場所でしたが、熱意に負けました。生徒が一冊も買わなくても文句は言わないという条件でした。【……】自分が買いに行って駐車できなかったら困る。根拠はこれだけでした」(『三洋堂書店40年のあゆみ』株式会社三洋堂書店、二〇〇一年、三二頁)。店舗面積約六三坪(前掲社史によれば六五坪)、約一五台駐車可能だったという。ところで、まったくの偶然であるが、筆者は小学五年生にあがった一九七六年、同店から六キロと離れていない「四軒家三洋堂」の近くに転居することになり、しばしば自転車にまたがってこの店に通うようになった。
手前に雑誌、奥に単行本、文庫本、マンガが並べられ、「立ち読みコーナー」と称して三〇冊ほどのマンガ(おそらく返品不能品であろう)がおかれた一角が設けられていた。現在の目から見れば、郊外店としては売場面積も駐車場も狭かったが、当時としてはほかの書店と違い、店内が広々とした印象をもった記憶がある。店舗は数年前に閉店したようだが、建物はシヤッターを下ろしたまま現存している(二〇〇一年八月現在)。筆者はごく最近まで東郷店も四軒家三洋堂も同じ三洋堂書店の支店どうしだとおもい込んでいたが、後者は加藤の長男夫婦が経営する別会社「池下三洋堂」の支店であったことが判明した。なお事実関係の確認にさいしては、株式会社三洋堂書店ならびに同社総務課青山喜芳氏にお力添えいただいた。記して感謝したい。
P.350 - P.351

この本、脚注の情報量が多くて楽しい。

出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生

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