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学びや思いつきを記録する、超要約ノート

国内MBA2013年入学、2015年無事卒業!読んだ本、記事、などの読書ノート。 忘れないために超要約整理。そんな記録。

自己啓発書とは何なのか、そこから炙り出される社会の側面とは、今年一番の面白さだった!! 牧野智和/日常に進入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ

社会学

今年読んだ本の中で、今のところベストなんじゃないかというくらい面白かった。
今や書籍の一大ジャンルになっている自己啓発本
その自己啓発本の歴史を紐解き、分類していきながら、
どのような主張がなされてきたか、それがどのように受容されてきたかを
フランスの社会学ピエール・ブルデューフレームワークを用いて整理していく。

何を行うことで自分にとって、あるいは他者に対して、自らの存在(アイデンティティ)が証明できることになるのか、その存在証明の区分線を浮き彫りにすることにある。
どのような振る舞いが、どのように卓越的な、あるいは劣るものとしての位置づけを施され、また優劣の両極にはどのような人々が配置されるのか。
今日における通俗的な差異化・卓越化(ディスタンクシオン)の一形式を、自己啓発書を素材にして明らかにすること――それが本書の目的である。
P.5

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ


そもそも自己啓発書とは何か

自己啓発書とは、既存の価値観に疑問を呈するものではなく、
最も受け入れられやすい価値観を前提として、人々の願望や不安を掲げて、
その対応策、すなわちある種の答えを提供する。
要するに、その売り方は書籍におけるコンプレックス商材。

個人的には自己啓発書全般に対して、ともすると軽薄に見え、嫌悪感を感じる時がある。

その根っこには、それが人の願望やコンプレックスを煽った上で稼いでいる側面に
似非慈善家のような気持ちの悪さを感じるからであり、
それを求める側にも安易な答えを求める姿勢が透けて見えるからなのだろう。

それでは自己啓発書とは唾棄すべき無価値なゴミなのか、というとそうではない。
それは一定の役割を果たしているとは思っているけれどそれはまた後の話。

自己啓発書について、あるビジネス誌の編集者はこう述べていた。
自己啓発書は二度考えないメディアだ」、と。
つまり、読者にとって最も馴染みのある、最大公約数的な価値観を前提として、自己の啓発に誘おうとする書籍群が自己啓発書だというのである(というより、既存の価値観を疑うことを主眼にするような書籍は、自己啓発に関連する書棚に並べられることはないだろう)。
あるいはこうもいえるだろう。
自己啓発書は、より多くの人々が魅了されるような願望、より多く抱かれるような不安を掲げて人々を惹きつけ、それらへの処方箋を提出する書籍群なのだ、と。
「はじめに」P.2

ひたすら日常にフォーカスする。

日常の、普段の、今ここの生活を疎かにしているのではないか。
そこに自覚的になることで、心理的な効用や、ビジネスに関する能力等が獲得できるのではないか、いやできるのだ――。
自己啓発書における焦点の一つはこのような、「日常」をどう過ごすかというところにおかれている。
P.3

これこそが自己啓発書の特徴であり、色々と面白いところ。
この特徴をブルデューの論理とは逆のもの、として捉えた筆者の視点が面白い。

そもそもブルデューが何を言っているかというと、
特定の社会階層によって望ましい感情的ハビトゥスは異なる。
ハビトゥスってのは「社会的に獲得された性向の総体」であり、
個々人が獲得したハビトゥスがそれに応じた
慣習行動を決定づける、っていう主張をしたのがブルデュー
人の習慣を形成する因子が社会階層に規定されているとすれば、
それは階層の格差をより強固なものにし、拡大再生産する構造的な問題が潜んでいる。

一方、対する自己啓発書は社会階層や各人の社会的な資本の格差などを丸ごと無視する。
そんなものは関係なくて、大切なのは今ここから、「日常」をどう過ごしていくのか。
あなたは今からどんなハビトゥスを獲得するのか、
それがあなたをより他者よりも優れた、卓越した存在へと導くっていう展開をしているのだ。

今日の日本で流通する啓発書においてまずもって賭けられているのは、特定の社会階層に偏在する望ましい感情的ハビトゥスを身体化してきたかどうかということではおそらくない。
ここまで引用してきた文言からもわかるように、啓発書は読者の出自に関係なく、今ここで新たに獲得されようとする感情的ハビトゥスによって今までの自分、あるいは他者との差異化・卓越化を促していると考えられる。
その意味で、啓発書において習得が促される諸動作は、その獲得をめぐるベクトルが、過去からの蓄積ではなく今ここからの努力という、ブルデューの所論とは逆の向きにおかれているのである。
P.8

過去は関係ない。今からどうするか、それは確かに一面の真理ではある。
そして理想的な考え方でもあり、甘美な響きではある。
個人がそういったマインドを持って生きることは否定しないが、
一方でこのロジックはブルデューが言う様な社会階層の格差の
構造的な問題を隠蔽する言説でもあるってのは本書を読んで気がついた新たな視点。

啓発書はより多くの読者に訴えかけるための形式的な手続きとして、家庭環境が媒介する学業達成、それが媒介する社会的威信の高い企業への就職、またそれが媒介する社会関係資本の形成、そしてそれらすべてが高める「成功」の可能性といった(教育)社会学的諸想定を顧みず、成功、スキル形成、自己実現を「自己管理」(清宮2011)の問題へと、「基本に徹する」(戸塚2013)という個々人の心がけの問題へと切り縮めるのである。
つまり啓発書が説く「成功」は一見して、獲得的文化資本へのコミットメントをさらに下支えする、社会空間のなかで偏って配分されている経済資本・文化資本の所有状況とある程度の関係を有するようにみえるのだが、「成功」を司る変数としてそうした社会的背景は捨象され、感情的ハビトゥスの意識的習得というたった一つの変数が司る問題へと縮減されてしまうのである
P.22

自己啓発本の主張は陰謀論と同じ

結局、自己啓発本が主張することを実践することが、
科学的に自らの成功確率を高めるかどうか、というのは証明も反証も不可能。
成功しなかったとすればそれは努力が足りないからであり、
成功したとすれば、それは自己啓発本の教えを実践したからに他ならない。
つまり、それって陰謀論と同じ。反証可能性の無いものは科学じゃないのだ。

でもそんなことまで計算づくで著者は書いているのかと言うと、そうでもない。
著者は素朴に自分の経験から書けることを書いている。

そこに編集が演出を施して商品にしていく訳だ。
で、こういった舞台裏までインタビューなどをして
調べているのが本書のもう1つの面白いところだったりする。

自己啓発本の信頼性を担保するっていうのは、基本的にはその著者がどんだけすごいかっていう言葉が担保になってるので、編集者としては著者をよくみせるっていう、基本的には読者の方っていうのは文章しか読めないので、文章の中からどういうふうにこの文章を読んだ時にどういうふうにこの著者がみえるかっていうところの印象を操作してるんです
P.18

自ら倫理的前衛然とするような著者は多数派ではなく、その仕立ては文化媒介者たる編集者が主導する向きが強いとみるのが妥当だといえそうである。
整理すると、著者はそれぞれの人生経験から書けることを書くのに対して、編集者はその主張や個性の特異性を際立たせ、著作の内容の充実、従来の自己啓発書との差異化、あるいは未だ売れ行きが見込める―ある三〇代男性編集者はこれを「太い」と表現していた(Bさん)―文脈への落とし込みを行っていく。
このような著者と編集者の共同作業によって、現代の倫理的前衛たちは私たちの前に現れているように思われる。
P.21

誰に、どのように読まれているのか

これはアンケート調査から見えてきた傾向。

中年女性を除けば、自己啓発書購読という行為は大まかには、大卒者、正規雇用、特に男性においてはいわば「体育会系」と括れるような人々においてより発生するものだという輪郭が描けるように思われる。
啓発書の読者に関する雑誌記事では、しばしば以下のような言及がみられるが、総体的にみると啓発書読者はホワイトカラー層により偏在しているとみるのが妥当だろう。
P.29

そして、自己啓発書に対するこの態度は、確かにしっくり来る。
盲目的に信用するものでもないのはわかりつつも、どこかで信じたい期待。
そして読者が抱えるそういう感情をうまく煽って売っていく編集者。
これはとても腑に落ちる姿。

自己啓発書に生き方や考え方をめぐる「哲学」「普遍的なもの」「意識のあり方」を求めていると語っていた。
盲目的に受け止められるものではなく、自らの現状に即したかたちで、選択的に読まれとりいれられるものでありながらも、何かしら本質的な、真正なことが書いてあるという期待のもとに、他に代替するもののない自己確認の日常的参照点として読まれる自己啓発書
そのようなある種の両義性が、啓発書の読みをめぐる基本的な態度ではないかと筆者は現時点では考えている。
P.43

その上で、筆者は自己啓発書の機能、効能をどう評価するのか。

応急処置であっても人々の不安や混乱に対処するために用いられ、部分的であっても人々の自己定義や行動の指針としてとりいれられるような対象は、今日の社会ではかなり稀有なものではないかと考えるためである。
いや、あらゆる価値観が見境なく「脱埋め込み」され、再帰性の渦へと投げ込まれてしまう現代社会(後期近代社会)においては(Giddens 1990=1993‐35-36, 53-56)、応急処置以上の「再帰性の打ち止まり地点」(牧野2012a 182)を私たちはなかなか手にできないのではないだろうか。
そう考えるとき、「緩やかに、暫定的に、入れ替え可能なかたちで、継続的な確信なしに読まれ、とりいれられる」という自己啓発書の「薄い文化」は、価値や行為の規準がますます流動的になる現代にむしろ適合的だとさえ考えられるのである。
P.44

応急処置であっても、むしろ応急処置として機能するからこそ一定の価値がある。
確かに、自己啓発書と同等の効能を持つ他のものと言われるととても難しい。
下手すると新興宗教とかになっちゃいそう。
だからその手前でこのうすっぺらい感じこそが価値があるのかもしれない。
でも、本当に薄っぺらいし、バカバカしい内容もてんこ盛り。
好きか、嫌いかでいわれたら嫌いだけどね。


徹底した読み込みにしびれる

多くの自己啓発本を読み込み、そのレトリックを白日の下に晒してしまう。
神秘のベールを剥ぎ取り、身も蓋も無い検証が始まる。
そして、これがまたすこぶる面白い!!

「年代本」「年齢本」―煩雑になるため、本章では以下これらを総称して「年代本」と呼ぶことにしたい―の基本的な特性について確認したうえで分析に進もう。
これらの書籍群は、扱う対象がどのような年代・年齢であろうとも、ほぼ同様の語り口で、読者をその世界へと誘おうとする。
つまり、二〇代は、三〇代は、四〇代は、あるいは二五歳、三五歳等は「分岐点」なのだ、「ターニングポイント」なのだ、「この年代で人生が決まる」、等々。
同一著者が、ある著作では三〇代を「人生でいちばん大事な年代」(赤根1996a)と語り、また他の著作では人生で「一番大事な時期は四〇代だ」と語る場合さえある。
いずれにせよ、人生のありとあらゆる時期を決定的な分岐点とし、読者を啓発しようとするのが「年代本」の基本的なスタイルだということができる。
またその際、今の人生をうまくいっていると考え、今後もそれまでの人生の「延長」や「惰性」で生きようとしては失敗するとされる(大塚2011)現状を維持しよう、現状に満足しようとすることは「傲り」(魚津1989)だと戒められ、そのうえで勝負どきは今なのだ、今こそ自らを変えなければならないとして、読者は自己の変革へと誘われることになる。
もし変革へと着手することができなければ、後の人生は「上と下に大きく分かれていく」(田中2010)のだ、「人生の敗者」(鈴木1980a)になってしまうのだというのである。
だが、こうした自己変革への従事は即座に自らに跳ね返ってくるわけではない。
「すべての変化は、一〇年後に意味を持ってくる」、「いつか必ず爆発的に飛躍する」とあるように、タイムラグをもって日常的な自己啓発の効果は現れてくるのだとされる。
このような、効果の即時検証が不可能であるというブラックボックスを孕みつつ、「年代本」は次々と刊行されているのである(これは自己啓発書一般にいえることかもしれないが)。
P.69 - P.70

そして年代本は人生の局面を細分化していく。

このような系譜をたどってきた現在の「年代本」の周辺には、『入社1年目の教科書』(岩瀬)のような、ターゲットを絞った「働き方本」のような書籍群もある。
「年代本」を含む、人生のある局面にターゲットを絞った自己啓発書群の浮上を俯瞰するなら、それはまず各出版社による読者開拓の戦略だといえるが、それだけでなく、人生の各局面を細分化して切り出し、その局面ごとに調整を図るべしとする、分節化されたライフコース観の浮上あるいは強化を示しているといえないだろうか。
そう考えるとき、私たちは各年代、あるいは各年齢にかつてないほどの意味を読み込み、またもたせようとする社会を生きているということになるのかもしれない。
P.104

確かに、なんだか窮屈な世の中な気はする。
結局正しいんだけど、面白くないし楽しくないってことが多い気がする。
人はもっとこう、ゆるくてダメな感じがあって良いと思うんだよね。


男性向けと女性向けの違い

男性向けはあくまでも会社、あるいは社会で抜きん出ること。
他者よりも卓越し、成功を収めることに重点を置いている。
自分の成功が全て、という視点。

男性向け「年代本」においては、その仕事への専心志向が家庭生活に対しても貫かれ、そのなかで男性ができる家事分担の「密度最大化」が図られていた。
また、その志向は当の仕事における挫折(四〇代論にみられた)をもってはじめて問い直されるようなものであった。
これらから看取できるのは、男性向け「年代本」の読者たる男性の人生展望において、パートナーの人生への配慮がほぼ何もみえてこないということである。
P.109

それに対して、女性向けの「年代本」は、
不安や焦りへの処方箋になっているという明確な違いがあるっていうのは
多くの自己啓発本を読み込み、比較することで得られた面白い情報。

不安、焦り、そのなかでの迷い。
どの時期に刊行されたどの年代向けの著作であっても、女性向け「年代本」の出発点はこのような感情にある。
(中略)
男性向け「年代本」では、仕事における卓越に向けて読者は常に煽られていたといえるが、女性向け「年代本」では、こうした不安や焦りを鎮めるという志向がその基調となっているのである。
P.113 - P.114

自分らしさの病

自分らしさは自分を認めるところから始まって、
自分以外の物事をどう捉えるかという地点にたどり着く。

で、結局全部自分のせい、みたいな全ての引き受け方が推奨される。

すべては「その人がいま自分の生きている状況を『どう思うか』」という問題に縮減されることになる。
「つまらなく生きることも、楽しく生きることも。自分が置かれている条件にかかわらず、心のもち方しだいで変えることができる」のだとして、自分自身の内面のみに専心する境地へと読者は誘われるのである。
さて、こうした感情的ハビトゥスを我が物とすれば、あとは自分自身の内面に専心して日々を過ごしていけばよいということになる。
残される作業は、ただ自分自身を変えることで世界が変わるという「ひとり革命」(八坂2010)への終わりなき従事である。
P.117

言っていることはわかるのだけど、でもこの「ひとり革命」は、
とても共感している自分がいる。
結局全部自分のせいにした方が楽だし、
自らの意志と選択と行動で解決に向かいやすいし、
生きていくうえでかなり有効なハビトゥスだと個人的には思う。
結局どこかで、割り切りをつけないと、
行動の手前でごちゃごちゃ悩んでしまいそう、というかそういう人多い気がしていて。
悩んでいるって聞こえはいいけど、ほとんど思考の停止と意思決定の放棄だと思うので。

ここまではいいのだけど、こういった自己責任論に基づいて、
自分らしくあることや、美しさの問題までどんどん拡張されていく。
これが女性向け自己啓発本の気持ち悪いところ。

で、なんで女性向けの自己啓発本において、
ことさら自分らしさが重要な問題として扱われるのか。

他者から与えられた人生のレールに無自覚に流された結果のネガティブな表象として「おばさん」なるものは対置され、差異化・卓越化の対象となっている。
「所帯じみている」「生活臭がつく」という言葉もまた同様に、主体的な生き方と対置されて退けられている。
整理すれば、自覚なき日常生活への埋没が批判され、そこからの離脱、いわば「自分らしさへの脱出」が企図されているのである。
P.118 - P.119

妻や母といった社会的な役割期待の圧力とか、
それに応えたい義務感とかの狭間でアイデンティティ
揺れ動くんだろうなぁ、と言うのは想像できる。

しかしまぁ、それが美しさ、みたいな所まで拡張されてくると
胡散臭いことこの上ない。

女性は美しさを追わねばならないが、その美しさとは生まれもった美醜の問題ではなく、女性すべての自分自身の努力にかかった、終わりなき探求課題なのだ、だから皆美しくなるための努力をしよう――。
このようにして、読者を美の探求という終わりなきゲームへと誘うところから美をめぐる議論は始まる。
すると当然、美とは以下のように定義されることになる。美しくなるということは外見のみを気にすることではなく、自分自身の個性や「オーラ」を磨いていくかどうかにある、つまり生き方の問題なのだとして、美の定義が拡張されるのである。
こうなれば、あとはここまでの議論で述べたとおりである。
自分をよくみつめて自分の個性を発見しよう、一見して欠点だと思えても自分自身の容姿を個性としてすべて受け入れよう、そうした個性をもとに自分らしい美しさを磨いていこう、磨き上げの方法を探すのも自分次第である、だからこそ美しさとは自己管理の証明なのだ――。
自分自身の発見と成長、自己責任といった自分らしさ志向の原理がここでも適用されるのである。
P.131 - P.132

そして最後に、男性著者による女性向け「年代本」

繰り返しになるが、男性著者による女性向け「年代本」の基本線もまた、前節までにみてきたような、自分自身の内面を何よりも重視し、それを充たすべく日々を生きていこうというものである。
だがその議論が、恋人をつくろう、結婚に持ち込もうといった類のハウ・トゥに踏み込むとき、自分自身の内面はどこかへ消し飛んでいるようにみえるのである。
つまり男性の手になる「年代本」ではときに、「誇張された女性性」の希求が露呈しているようにみえるのである。
このような傾向を単純に男性著者の欲望が露呈していると結論づけても特に意味はないだろう。
むしろ、人々の願望を先取りして応えようとするのが自己啓発書であるならば、上記のような傾向は、権威ある男性に諭されて「誇張された女性性」へと積極的に埋没していく関係性こそが、一部の読者に欲されていることの証左なのだと考えるべきではないだろうか。
いずれにせよ女性向け自己啓発書は、「女らしさ」からの離脱と再埋め込み、自分らしさの獲得と放棄がときに入り混じる、両義的な(活用をされる)メディアだといえるのではないだろうか。
P.141

男性著者のによる願望ではなく、男性に諭されて女性性へと埋没していく
欲求が女性側にあるっていうこの視点も非常に面白い。
そういった言説が一定数流れているのはそこに需要があるからであって、
女性側に一定のニーズがあることは確かだろう。
この捩れた欲求はとても面白い。


領域を拡張する自己啓発

そして年代本による対象世代の細分化も行き着いたところで、
自己啓発はあらたな領域へと拡張し始める。

自己を啓発しようという意識が殊更なくとも、私たちを自己啓発(書の世)界へ、あるいはその境界近くまで誘おうとする、あるアイテムがある。
手帳である。
手帳の最も基本的な機能として、さしあたっては日々のスケジュール管理や備忘用のメモといったものが考えられるが、もしこれらの機能をよりうまく活用したいと思うならば、そのような人々には手帳術、あるいは時間管理術やノート術。
メモ術といった自己啓発書の諸ジャンルが、また同種の内容を扱う雑誌の特集記事が待ち構えている。
P.161

自己啓発の近くに誘うアイテム、それが手帳。
そんなこと考えたこと無かったけれど、言われてみれば確かに・・・。

社会学的時間論の先行研究を参照してみよう。
先述した大久保は、手帳の予定欄が埋まっているという多忙な状況を充実と誤認してしまう可能性に触れ、「手帳の空白」こそが真の充実に近しいのではないかと示唆していた。
伊藤美登里もまた、エンデの『モモ』を引きながら、客観化・量化された時間の管理を基本的志向とする近代的な時間感覚が人間の生活を無味乾燥なものにしてしまう可能性に触れ、「質的な意味を担った『生きた時間』」をそれに対置して示していた。
P.198 - P.199

この手帳が埋まっていると充実しているって感覚は個人的にはまったく無くて、
本当に予定がない日こそが充実、っていうタイプ。
むしろお願いだから一人にさせてくれ、と思うタイプなので、
自分には予定を埋めることの充実感に関しては、
リアルな感覚は無い。

当初曖昧なままに示されていた手帳術の行く先は、一九八〇年代になるとビジネスの文脈に落とし込まれ(主に効率的な時間管理と、創造的な活動に向けた情報管理に向けられ)、やがて二〇〇〇年代になると夢の実現という文脈に手帳術の意義を一義化しようとする著作群が登場することになる。
同時期に注目を集め始めた「ほぼ日手帳」では、手帳術の用途・技法を限定することなく、より「自由な」使い方が推奨されるようになる(だがそれは、人々の生を捉えようとする、ある種最も細密な網であるようにも思える)。
そして○○年代後半以降の手帳術は、用途と技法の終わりなき肥大化に突き進み、今日における手帳術の賭金=争点は、そもそも自分自身がどのような日常を望ましいと思うのか、またどのような状態を目指すのかということそれ自体を自己導出し、またそれに見合った手帳(術)やその付属品を適切に選んでいくことへと変わりつつある。
P.204

そして手帳術も進化を遂げて、こんなことになっていると言うお話。

そして最近新たに出てきたジャンルとしては、片付け、掃除の世界。
自己啓発 meets 片付け。

この片付けブームを自己啓発の展開として捉える視点も、
本書を読んですごくしっくり来た学びの1つ。

そして、これは偶然の出会いではなく、掃除や片付けという行為が
自己啓発と出会う必然性は昔からあった、というこの指摘も面白い。

まず掃除についてみていこう。
掃除という行為に自己啓発、より精確に述べるならば修養や精神浄化の契機を見出そうとする思想の根は深い。
教育学者・沖原豊の編著による『学校掃除-その人間形成的役割』(冨召)では、ケガレを忌み、それをみそぎ・はらうという神道等に由来する清浄感、掃除によって悟りを開いたとする周利槃特以来の仏教、特に禅宗における掃除(物の掃除)と修行(心の掃除)の結びつき、茶道や儒教における礼法としての掃除の重視とそれに関連する家庭でのしつけ、寺子屋・私塾・藩校における掃除の伝統等の思想的底流が紹介されている。
他にも、便所神や厠神等を祀る寺社は日本各地にみられ、やはり各地に生活やハレ・ケを区切る行事として掃除を位置づける習俗があり(大島)、そして天理教(石崎応召)や一燈園(原川1961)をはじめとする新宗教修養団体において掃除を修養の一環として捉える実践がなされてきたことなどを考えると、掃除という行為をそれのみに留まらない行為として捉える態度は近年になって形成されたものではないといえるだろう。
P.226

社会学って面白い

自己啓発本というありふれた、しかも特に誰からも重要視はされないような領域を
歴史を含めて辿っていくことで社会に対する色々な視点が示唆される。

できの悪いものはちょっとアレだけど、こういう質の良い研究は、
読み物としてもとても面白い。
想像以上の収穫だったな。

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ