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平易にまとめられたいわゆる現代思想のダイジェスト。 佐々木敦/ニッポンの思想

日本の現代思想の流れをざっくりとまとめてくれた良書。
まぁ、もちろん厳密に言うと突っ込みどころは色々あるのだろうけど、
これくらいざくっと書いてくれた方が大局が掴めて便利。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

佐々木敦のイメージは思想家というよりも、
音楽評論家、とくにノイズとか、現代系の音楽のってイメージだった。

ex‐music

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いつの間にやらこういう立ち位置になっていたのですね。


特殊でありたい=凡庸

人と違う存在でありたいということ自体が凡庸。
人と違うと思ってるやつこそ普通。
逆説的だけど、本当に変わってるというやつは自分のことを変わっているとは思っていない。

蓮實はそもそもこのような「変えているつもりが似てしまう」こと、すなわち「特殊であろうとすることがそのまま凡庸さでもある」という逆説を「近代(人)」の特徴だと考えています。
ひととは違うこと、他者との差異を強調しようとすればするほど、それは他者(たち)と同様の「凡庸」な欲望に突き動かされていることになってしまうわけです。
これはつまり「自分のことを変わっていると思っている者がいちばんフツウ」ということです。
そして、どうしようもなく「フツウ=凡庸」であるにもかかわらず、というか、ぞれゆえに「変わっていること=特殊」をやみくもに求め、それどころか実際に「自分は変わっている」と誰もが勘違い出来てしまうような環境を評して、蓮實は「自由」の皮をかぶった「不自由」だと述べているのです。
P.113 - P.114

作者とは何か

作者の考えは何か、作者の気持ちは?
文系は作者の気持ちでも考えてろ、っていう揶揄が出てくるように、
作品=作者のものであり、作者の意図を読み取ることが読むことだと錯覚している。
作者の思いを慮るのではなく、自分がどう思うか、何を感じるか、こそが重要なのだけど。
まぁ初等教育からそういう誤解を植え込んでくるこの国においては、
作品=作者のもの、作者の意図=答えが本の中に存在している、といった
暗黙の前提に縛られている人が大多数になってしまうのは致し方ないのかもしれない。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。
ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の神秘的性格を明らかにしたのはヴァレリーである。
彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく”作者”というものをつくり出すのだと考える。
作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった”作者”をたえずつくり出すのである。
たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。
かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される”作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。
P.119

本当は、作品が作者を作り出している。

このような考え方は一見、いわゆる「テクスト論」的なものに思えます。
すでに六〇年代から、文学理論の分野ではロラン・バルトが、哲学においてはジャック・デリダミシェル・フーコーが、ごく大まかにいえば、文学作品=書かれたもの=「テクスト」を、本来その造物主であるはずの書き手=作者から分離し、作者の意図やその背景を成す伝記的事実とは完全に別個に、より自由で多様な読解可能性へ「テクスト=織物」を押し開いていくことを提唱していました(初期の蓮実重彦が参照したヌーヴェル・クリティックもこうした傾向を強く持っています)。
実際、柄谷はこの後、七五年にイェール大学に客員研究員として滞在した折に、アメリカにおけるデリダ受容=テクスト学派=脱構築批評の最大の立役者であるポール・ド・マンの知己を得て、追ってはデリダ自身とも親交を結んでいきます。
「作者」が「作品」を作り出すのではなくて、その逆(「作品」が無数の「作者」を生成する)なのだという転倒は、「作者の死」(バルト)や「テクストの外には何もない」(デリダ)といった言葉と確かに相通じています。
P.119 - P.120

作品の研究が作者の研究になりがちなのは、作者の意図を重視するからに他ならない。
本当は、作者が執筆当時どうだったかなんて作品と関係ないじゃんって感じなのだけど、
結局そういうわかりやすい物語の中に作品を位置づけた方が楽なんだろうな。

ものがたりというわかりやすさってとても危険だと思っていて、
特にわかりやすい話ほど裏がある。

筆者の理解だと、もっとも純粋に、つまりはもっとも素朴に理解された「テクスト論」とは、一種の読者至上主義です。
それはつまり「書くこと」に対して「読むこと」の自由を上位に置くことです。
漱石の「作品」の「読解」の数だけ「夏目漱石」という「作者」が生成される。
この「読解」の自立性と恣意性と多様性が「テクスト論」の切り開いた可能性でした。
がしかし、それはすなわち、ひとつひとつの「読解」の正当さ(真の理解)というものも、絶対的に保証されないということです。
「読者」の数だけ「作者」がいる。
けれども具体的な「作品」は相変わらずひとつです。
「作者」から特権性、専制性を剥奪して、多様な「読解」の側に軍配を上げることは、いわば「作者」も「読者」のワンオブゼムに置くことです。
となると結局のところ、あらゆる「読解」は、また別の異なる「読解」の可能性によって押し流されてしまう。
一個の「作品=テクスト」から「書いたつもり」ではない「読み」が幾らでも可能になるということを認めると、それらがすべて「読んだつもり」でしかないということも認めざるを得なくなる。
どこまでいっても「作品」の「真実」にはたどり着かない。
P.121 - P.122

まぁ、読者至上主義で良いと思うけどなー。
主体的に読むことの重要さをもっと伝えていった方が良い気がする。


ポスト・モダン

すべての価値が相対化され、支配的な価値観やものがたりが無くなってしまった時代。
所詮、ある視点においては、とかある価値観においては評価されるってだけで、
なんとも熱しにくい世の中だなぁとは思う。
まぁ、でもしょうがないよね。
価値観とは多様なものだ。

リオタールは、この本のなかで、「モダン」の時代を支えていた、「人間」の理念と実践の一致を「正当化」する「普遍的」な「価値」を担う「大きな物語」群、たとえば「自由」「革命」「正義」などといった概念が、今日の現実においては失墜し、もはや成立しがたくなってしまっていると述べ、それが「ポスト近代」の特徴だと言っています。
「大きな物語」とは「理想」や「大義」と言い換えてもいいものだと思います。
他にも色んなものが代入出来るでしょう。
マルクス主義」とか「美」とか「文学」とか、そもそも「人間」や「正当」や「普遍」や「価値」だって「大きな物語」です。
そして、ここからはリオタール自身の記述というよりも、『ポストーモダンの条件』出自の「ポストモダン」論の「ニッポンの思想」におけるパラフレーズということになるのですが、「大きな物語」が終わった後には、無数の「小さな物語」が散乱したまま残されることになります。
この「小さな物語」を、リオタールはウィトゲンシュタインに倣って「言語ゲーム」と言っていますが、もっと大まかな意味で、それは「小さな価値観」というか「それぞれの価値観」というか、たとえば「趣味嗜好」に代表されるような「個別的相対性」とでも呼べるだろうと思います。
こうして「ポストモダン」は、いわゆる「価値相対主義」(すべての価値判断は相対的であり、絶対は絶対にない)を導き出すことになります。
P.143

オタク=薬物依存

自分も結構オタクな方だとは思うけれど・・・
でも、この依存的な感じは良くわからん。

冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。
あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭のなかで回り続け、あたかも取り憑かれたようだ、というのは、少ながらぬオタクたちが実感を込めて語る話である。
それは趣味よりも薬物依存に似ている。
「薬物依存者」の「ドラッグ」が「萌え要素」に変わったのが「オタク」であり、彼らの「単純かつ即物的」な「依存」のありようが「動物化」と呼ばれます。
それはペットがエサに「取り憑かれる」のと同じだからです。
そういえば筆者は、ここでいわれているのとほぼ同様の「依存」を、かつて「テクノ・ミュージック」によって体験したことがあります。
それはまさしく「脳の結線が変わってしまったかのように同じ音が頭のなかで回り続け」る体験でした。
P.309 - P.310

これ読んでて、自分がテクノにハマりきらない理由がわかった気がした。
きっと全然、脳の結線が変わるほど聞いてないのだな・・・
いずれにせよ、最近そこまでハマるものも無くなってきてしまったのは寂しい限り。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)