超絶面白い。
今年もまだまだ始まったばかりなのに、
今年のベスト3に入るんじゃないかと思うくらい。
何が衝撃かというと、個人の自由意志なんてないんだとのっけから示される。
一方で、自由意志があるという錯覚は、学歴があればあるほど、
いわゆるエリート層ほど抱く錯覚なんだとさ。
そう言われて、どう思うか?
その通りと思えるか、そんなバカなと思うか。
社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)
- 作者: 小坂井敏晶
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2013/07/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (7件) を見る
集団の影響からは逃れられない
この衝撃は『データの見えざる手』を読んだ時と似ている。
あの本でも
「24時間の配分は自分の意志次第でどうにでもなると思ってきたけれど、それは錯覚」
という話が衝撃だった。
結局この本がいう自由意志の否定も『データの見えざる手』が示していることに通じる部分がある。
個人の自由意志なんかよりも、はるかに人は集団に影響されてしまう。
そんな現実がある。
個人は集団に影響を与えつつ、集団の影響も受ける。
個人と集団には相互作用があるのだ。
我々が提案する集団研究の目的は、個人力学と集団力学の間の恒常的な相互効果を強調し、集団が個人を形成・社会化し、行動および思考形式を刷り込むと同時に、集団も個人によって生み出される事実を明らかにすることである。
個人は単に集団に服従する存在ではない。
今日の異端が明日の救世主
常に一歩引いてみる重要性。
真の多様性とは自分と全く異なる価値観を認めること。
自分の考えも、相手の考えも相対化してプロットすること。
真理も、正解もない、中心のない世界ってまるでポストモダンそのものじゃないか。
全てが相対化される世界、その自由さの魅力はもちろんわかりつつ、
人は正解のない自由さに不安を抱いてしまう生き物だったりもする。
真理はどこにもない。
正しい社会の形はいつになっても誰にもわからない。
だからこそ現在の道徳・法・習慣を常に疑問視し、異議申立てする社会メカニズムの確保が大切です。
今日の異端者は明日の救世主かもしれない。
無用の用という老子の言葉もあります。
〈正しい世界〉に居座られないための防波堤、全体主義に抵抗するための砦、これが異質性・多様性の存在意義です。
良識と呼ばれる最も執拗な偏見を、どうしたら打破できるか。
なるほどと感心する考えや、これは学ぶべき点だと納得される長所は誰でも受け入れられる。
しかし自分に大切な価値観、例えば正義や平等の観念あるいは性タブーに関して、明らかにまちがいだと思われる信念・習慣にどこまで虚心に、そして真摯にぶつかれるか。
自己のアイデンティティが崩壊する恐怖に抗して、信ずる世界観をどこまで相対化できるか。
異質な生き様への包容力を高め、世界の多様性を受けとめる訓練を来る世代に施す。
これが人文学の果たすべき使命ではありませんか。
そんなことを考えていたら、この本を思い出した。
- 作者: エーリッヒ・フロム,日高六郎
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1965/12
- メディア: 単行本
- 購入: 27人 クリック: 216回
- この商品を含むブログ (136件) を見る
人は自由に耐えられないのだよ。
個人の人格など関係ない
人間には自由があり、意志に応じた行動を取る。
各人は固有の性格を持ち、そのために行動にも個性が現れる。
我々はこう信じます。
しかし、このような素朴な人間像に社会心理学は真っ向から挑みます。
各人の行動を理解する上で、人格などの個人的要因はあまり重要ではない。
これが社会心理学の基本メッセージです。
こんなこと言われても、俄かには信じがたい。
というか信じたくない。
必要十分な努力によって成果は得られるし、
望んだ成果が得られないのであれば努力の質か量が足りないのだ。
そういった考え方がいわゆるビジネスエリートの根底にはあるのではないか。
自分も基本的にはその考え方を信じて生きてきた。
ちょっと前にアドラー心理学が話題になったけど、
アドラーの考え方ってビジネスエリートに共通する考え方だとすごく感じた。
他人のせいにしないで、全てを自分のせいとして引き受けるのは一見立派な考え方に思えるが、
結局そう思う方が楽なんだよね。
自分のせいだと思うことの根底には、自分次第でなんとかなるという世界観が前提になっている。
それが希望なんだよ。
自分次第でどうにかなる世界の方が可能性という希望を感じられる。
何をやってもどうにもならない世界なんて面白くないというか、
全てを受け入れるしかないなんて絶望でしかないでしょ。
でもそんなのはある種の欺瞞だと、社会心理学は突きつける訳だ。
人はいくらでも残虐になれる
この実験をして、最も悲惨でかつ残念に感じた点は、加虐傾向のない正常な人間でも残酷な行為を簡単にしてしまう事実だ。
監獄の状況に置くだけで、反社会的行動を引き出す十分条件をなすのである。
この実験というのは、善良な学生たちを囚人と看守役に分けて
模擬監獄をやらせてみたところ、看守は囚人(ただの役でなんの罪も犯していない)に対して、
嫌がらせなどを行い、それが日に日にエスカレートしていって実験を6日で中断せざるを得なかったというお話。
看守役も囚人役も、ごく普通の善良な市民なのにこうなってしまう。
それが社会心理学が突きつける真理。
意志だと思っているものは後付けに過ぎない
社会状況に応じて人間行動は、どのようにも変わる。
悪人だから犯罪をなすのではない。
確かに、すんでのところで犯罪行為を踏み止まる者もいれば、一線を越えて罪を犯し、投獄される者もいる。
同じ社会環境の下で育っても、ある者は人を殺し、他の者はそうしない。
しかしそれは逆に、行動に応じた意識が後になって形成されるのです。
警察の厳しい尋問の下、犯行動機が後から作られる。
また服役生活において罪を日々反省する中で、犯罪時の記憶が一つの物語としてできあがる。
これだけ読んでもナンノコッチャ、そんなバカな、と思うのだけど。
手首を動かす指令が無意識のうちに生じると、運動が実際に起きるための神経過程と、手首を動かそうという「意志」を生成する心理過程とが同時に作動する。
自由に行為すると言っても、行為を開始するのは無意識過程であり、行為実行命令がすでに出された後で「私は何々がしたい」という感覚が生まれる。
勘違いがないように念を押しますが、ここで検討しているのは、身体の運動が何気なしに生じ、それに後から気づくという事態ではありません。
自由にかつ意識的に行為する場合でも、意志が生じる前にすでに行為の指令が出ている。
そのため、自由を脅かす実験結果として発表当時、哲学や心理学の世界に激しい衝撃を与えました。
手首を動かそうと思って手首を動かした、その行為の過程で何が起きているのか。
手首を動かす脳の指令は無意識化で起きていて、その後で手首を動かしたいという感覚が生まれる!
脳の中ではそういう処理がされているんだそうだ。
つまり、意志とは後付けの錯覚に過ぎない。
悪名高いナチスのユダヤ人虐殺=ホロコースト。
その原因は、反ユダヤ主義なのか、というとそうではないというのが今日の認識らしい。
反ユダヤ主義が原因でホロコーストが生じたのではない。
しかし、いったん虐殺が開始されれば、殺戮者の苦悩を麻痺させる手段が必要になる。
そういう意味で、反ユダヤ主義はホロコーストの原因というよりも、逆に虐殺の結果だと言えるでしょう。
ホロコーストの本当の恐ろしさは、あからさまな暴力性ではありません。
逆に、むき出しの暴力をできるかぎり排除したおかげで、数百万にも上る人間の殺戮が可能になったのです。
反ユダヤ主義は、ユダヤ人を虐殺したことに対するエクスキューズとして生まれている。
反ユダヤ主義は原因ではなく結果なのだ!
意志や意識は行為の出発点ではない。
これは認知科学でよく知られた事実です。
近代人が信じるような、統一された精神や自己は存在しない。
脳では多くの認知過程が並列的に同時進行しながら、外界からもたらされる情報が処理される。
意識とか意志とか呼ばれるものは、もっと基礎的な過程で処理されたデータが総合された生産物です。
行動を起こす出発点ではなく、逆に、脳で行われる認知処理の到達点の一つです。
意志とは後付けに行われる脳の認知処理!!!
じゃあ、一体俺たちはなんなんだ!
自分の意志が後付けだとしたら、自分は何に動かされているのだ!
これが正に未だに解けていない謎なんだそうだ。
要するに主体はどこにあるのか。
主体的な意志だと思っているものが後付けの認知処理なんだとしたら、
我々が突き動かされる衝動の主体はどこにあるのか!?
でもそれはまだわからんらしい。
正直この問題を考え始めると気が狂う気がするから、
そういうもんかと流しておきたい。
〈私〉は脳でもなければ、イメージが投影される場所でもない。
〈私〉はどこにもない。
虹のある場所は客観的に同定できず、それを観る人間によって、どこかに感知されるにすぎない。
それと似ています。
〈私〉は実体的に捉えられない。
〈私〉とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスです。
〈私〉とは社会心理現象!!!
自分はどこにいるのか!?
自分は社会であり、社会は自分!?
因果律に潜む恐ろしさ
原因があって、結果がある。
でもこれを突き詰めていくと、結果があるものには原因があるとなる。
不幸な人には不幸になる原因がある、とする考え方。
いじめられる奴にも問題がある、レイプされる女にも原因があった、とかそういう言説は
正に因果律を突き詰めた結果の歪んだ思考。
因果応報や信賞必罰はありふれた信念ですが、その論理を突き詰めると恐ろしい帰結に至ります。
話の筋道を逆にしましょう。
悪いことをしなければ、罰を受けないのが本当ならば、現実に不幸な目にあった大は何か悪いことをしたはずです。
不幸の原因が本人にあるはずです。
拷問を受けて苦しんだのは、この女性が愚鈍だからだ、実験者の言うことを守らなかったからだ。
そう思い込むことで彼女の不幸が正当化される。拷問を受ける人の苦しみが大きければ大きいほど、その場面を目撃する者の無力感や罪悪感は強い。
しかしその時、拷問される理由が本人にあるのだと思い込めば、自己責任だから仕方ないと納得できる。
したがって女性の苦難が続行する時こそ、彼女自身に責任が転嫁されやすいのです。
でも、近代以降の社会を形作る基本的な考え方なんだよね、因果律って。
原因があるから、結果がある。意志があるから、行為が行われる。
自由意志が担保されているから、行為の責任を負わねばならない。
因果律を基に責任を定立する近代法において意志が重要な役割を果たすのは、意志が行為の原因をなすと考えるからです。
行為と関係ない単なる心理状態ならば、意志について議論する意味が失われます。
ところで意志が原因をなすならば、それに対応する行為は必ず生じなければならない。
原因と結果の間には定義からして必然的関係がある。
このずっと当たり前だと思っていた大原則すら、逆なんだとこの本は言う。
なんという衝撃!
人間が自由だから、そして人間の意志が決定論に縛られないから責任が発生するのではない。
人間は責任を負う必要があるから、その結果、自分を自由だと思い込むのだ。
格差の心理
身分社会の場合は、違う身分の人は世界が違い過ぎて比較対象にならない、というお話。
人は自分と近しいレベルのものを羨む。
そこに承認欲求が生まれて、比較による嫉妬、羨望が生じてしまう。
それって1億総中流社会なんてことを喧伝していた日本においてはものすごく顕著な社会心理現象なんじゃなかろうか。
格差はなくならない。
他者との比較が自己同一性の維持と密接な関係にあるからです。
とはいえ格差は少しでも減る方がよいのではないか。
士農工商と身分が分かれて公然と差別される社会に比べれば、民主主義社会の方がましではないか。
しかしそれは人間心理を知らない者の楽観論です。
近しい比較対象との差こそが問題を孕むとアリストテレスは『弁論術』「羨望」(第二巻第十章)において指摘しました。妬みを抱くのは、自分と同じか、同じだと思える者に対してだ。
それは家系・血縁関係・年齢・人柄・世評・財産などにおいて似通った人のことだ。
時・場所・年齢、世の評判などで大は自分に近い者を妬む。
競争相手や恋敵、一般に同じものを欲しがる者と人々は競う。
そのため彼らに対し必ず嫉妬心を覚える。
社会の底辺に置かれた者が肯定的アイデンティティを持てるかどうかは社会資源の分配量だけでは決まらない。
封建社会においては出生の違いにより身分が固定されました。
しかし同時に、下層の人間は上層の人間との比較を免れるため、近代社会に比べて羨望に悩まされにくいのです。
伝統なんて大概が後付け
ちゃんと調べてみると、意外と歴史が浅かったりする。
例えば現在のような形式の初詣って明治中期頃に始まった、という話もある。
古来からの伝統なんかではない。
太古から続く伝統などというものは、たいていが後の時代になって脚色された虚構です。
実際に生じた変化、そして共存する多様性が忘却されるおかげで、民族同一性の連続が錯覚されるのです。
民族同一性の連続を錯覚させるための後付けの虚構だったりするわけだよね。
これも、伝統という原因なんじゃなくて、結果として伝統という認知処理が生まれてきている感じ。
それでも人は生きていくわけです
「私」という存在のわけわからなさがあったとしても、
人は生きていかなくてはいけない。
逆に言えば、そういう不確かな存在にすぎないんだから、
もっと気楽に考えてもいいのかもしれない。
著者のこの最後の言葉には非常に共感。
「理由はわからないが、やりたいからやる。」
それで良いんだと思う。
確かに迷いは誰にもあります。
私などは今でも迷ってばかりです。
しかし文科系の学問なんてどうせ役に立だないと割り切って、自分かやりたいかどうか、それしかできないかどうかだけ考えればよいのだと思います。
落語家もダンサーも画家も手品師もスポーツ選手もみな同じです。
やりたいからやる。
親や周囲に反対されてもやる。
罵られても殴られても続ける。
才能なんて関係ありません。
やらずにはいられない。
他にやることがない。
だからやる。
ただ、それだけのことです。
研究者も同じではありませんか。
死ぬ気で頑張れと言うのではありません。
遊びでいい。
人生なんて、どうせ暇つぶしです。
理由はわからないが、やりたいからやる。
社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)
- 作者: 小坂井敏晶
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2013/07/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (7件) を見る