ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア

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ビジョナリーが見ている未来の一端に触れると、凡庸な私でもワクワクしてくる。 落合陽一/魔法の世紀

著作も読まずに勝手に親近感を覚えて応援していた落合陽一氏の著作をいまさらだけど拝読!

宇野常寛責任編集のメールマガジンを書籍化したものなんだけど、
彼を見出し、著作という形で世に送り出したのは宇野常寛氏だったのかぁ、と。

なんというか、若き俊英たちって感じがするな。

魔法の世紀

魔法の世紀

映像の世紀と魔法の世紀

20世紀は映像の世紀
映像が共通体験だった時代。
映画館のスクリーンを観客が皆見ている(1つのディスプレイを皆が見ている)世界。
でももう、今は違う、手元のスマホを見てる。
そこに表示されてるものは個々人によって異なる。
映像という共通の媒介を通さずに直接繋がれる。
それはもう、19世紀的な映像の世紀とは異なる。

で、魔法ってなんだ?ってことなんだけど
魔法は要するに仕組みや原理はわからないけど今そこにある現象、なんだよね。
で、複雑怪奇な現代においては、仕組みは複雑すぎて理解できないけれど、
実現していることがそこかしこにある。

それって魔術的だって話。
近代化は脱魔術化で迷信から科学へというシフトだったのだけど、
今は社会を成立させる仕組みを理解できないまま、そして理解する必要もなく、
生きていける社会になっている、その変化をモリス・バーマンという人は再魔術化と言ったのだそうだ。

そういわれると、魔法の世紀ってのが腑に落ちる。
現代社会には魔法がたくさん溢れている。

ユビキタス・コンピューティング

いつでもどこでも、が強調されすぎたと落合氏は言っている。
いつでもどこでもデバイスが使える、ということよりも、
バイスの存在そのものが意識されなくなる、というニュアンスこそが重要だと。

呼んでいて感じたのはデバイスやテクノロジーが溶けていく感覚なんだと思う。
バイスはデバイスとして意識されている時点で未成熟という考え方。

バイスや技術を意識しなくなっていく、魔術化がどんどん進んでいく。
Amazon echoとかSiriとかGoogle Homeとか音声インターフェースも、
使ってみると、なんか少しデバイスが溶けてる感を感じるんだよね。

この感覚がもっともっと進んでいくんだろうなぁ。

ショッピングモールとマクロス

かつては田舎の非文化的施設の象徴であったショッピングモールが、いまやその中ですべてが完結する存在になっている。
人類が宇宙に旅立つときはショッピングモールを打ち上げればOKというのは秀逸な例えだなぁ、と妙に感心してしまった。

デジタルの色

デジタル慣れしている世代はきれいな青と赤に慣れすぎている、という話。
これも非常に面白い話。

光は混ぜると白になるけど、絵の具は混ぜると黒になる、
だからディスプレイでずっと色を見てきた世代はきれいな(=明るい)青と赤に慣れすぎてるってこと。

この光と絵の具の性質の違いって昔印象的だったのは美術の話として聞いたときだったことを思い出す。
絵の具は混ぜると暗くなる、だから印象派は混ぜた色を塗るんじゃなくて、色彩分割して目で色(=光)を混ぜたんだって話。

そのときも光と絵の具の違いから印象派の話への流れが巧みですごく腑に落ちたのを覚えている。

もう記憶が曖昧だけど、高階秀爾の『20世紀美術』の一節だったかなぁ。
すぐに調べることができないのでうろ覚えなのだけど、
万が一違ったとしても、この『20世紀美術』は名著なので未読の方にはお勧め。

20世紀美術 (ちくま学芸文庫)

20世紀美術 (ちくま学芸文庫)

いずれにせよ、落合氏はちょっとしたコラムも示唆に富んでいて面白い。
そして頭いいから話がすごくわかりやすい。

魔法の世紀とデジタルネイチャー

人に合わせて作られていたデバイスやメディアが人を超越していく。
そこにはものすごい可能性がある気がするし、面白そうでわくわくする。
なんかこう、久しぶりにビジョナリーだなぁ、という衝撃を受けました。

映像の世紀」とは、人間に指針を合わせてメディアを設計する時代でした。しかし、「魔法の世紀」では人間の感覚を超越した設計を行うことで、メディアが物質的世界自体をプログラミングできるようになります。そして僕は、コンピュータが制御するモノとモノ、あるいは場と場の新しい相互関係によって作られ、人間とコンピュータの区別なくそれらが一体として存在すると考える新しい自然観そしてその性質を「デジタルネイチャー」と呼んでいます。
P.179

魔法の世紀

魔法の世紀