ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア

本を読んでそこから新しい知識を得たり、学んだりすることが大好き。学びたい、成長したいという意欲のあるビジネスマンの皆さん、一緒に成長しましょう。

ユーザー体験全てをコントロールしようとした天才。 ウォルター・アイザックソン/スティーブ・ジョブス

とても話題になっていたジョブスの自伝。
相当今更ですが、今更読みました。
やはり稀有な人だったんだなぁ、と再確認。
読んだ勢いで自宅のマックを買い換えたくなったけど、我慢。

マイクロソフトがオープンかつ、水平展開なのに対し、
アップルはクローズで垂直統合したモデルだということがよくわかった。
それはソフトウェアとハードウェアを共に開発することで、
最高の製品を作りたかったから。
ユーザー体験の全てをコントロールしたがったジョブスの強烈なエゴこそが、
アップルのすぐれた製品、サービス、へと繋がっていることがよくわかる。

Windowsしかり、Androidしかり、ソフトウェアといえばオープン志向なものがほとんどだ。
それはそれで正しいのかもしれないけれど、
究極のルック&フィールはライセンスされたソフトウェアと
ハードウェアの組み合わせでは難しいのかもしれない。

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II


意識高い系の合言葉

Stay Hungry, Stay Foolish.
意識高い系のTwitterの自己紹介欄とかによく出てくる言葉。
で、そのジョブスお気に入りの言葉は元々ホールアースカタログというカタログに載っていたもの。

ジョブズはホールアースカタログが大好きだった。
とくに好きだったのが最終号で、大学にもオールワンファームにも、ハイスクールの生徒だった1971年に出たその号を持っていったほどだ。「最終号の裏表紙には早朝の田舎道の写真が使われていた。
ヒッチハイクで旅でもしていそうな風景で、『ハングリーであれ、分別くさくなるな』の一言が添えられていた」
上巻 P.107

デザインへのこだわり

デザインの流行に関しても先見の明があったんだな、というエピソード。
バウハウス流であり、ブラウンのようなシンプルさ。

「いま主流の工業デザインはソニーのハイテク型で、ガンメタかブラックあたりで塗り、いろいろと加工をおこないます。加工は簡単ですが、すばらしいものは作れません」と、製品の機能や特質にあったバウハウス流のデザインを提唱する。
「ハイテクな製品とし、それを、ハイテクだとわかるすっきりしたパッケージに収めます。小さなパッケージとすれば、ブラウン社の家電製品のように、白くて美しい製品を生み出すことができます」ジョブズはまた、アップルはすっきりとシンプルな製品にすると繰り返し強調した。
上巻 P.206

いつか死ぬ

人は誰でもいつか死ぬ。
死を前にすると大概のことはどうでも良いこと。
それで無駄なものを排除できるし、
大切なものが見えてくるってのはすごくよくわかる気がする。

人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。
ほとんどのことがー周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖などーそういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。
自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。
人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。
下巻 P.266

後継者

「でも、ティムは本質的に、製品タイプの人間じゃないんだよね」
P.267

後継者、ティム・クックのこと。
COO、オペレーションのプロ。
本質的に製品タイプではない。
そういう人で大丈夫なんだろうか・・・
ジョニー・アイブが頑張るんだろうか・・・。

ジョナサン・アイブ

ジョナサン・アイブ

アイブは精神的に疲れ切っていた。
ジョブズを自宅まで送る車中、ジョブズ不在で物事を進めるのがとてもきつかったとこぼす。
ジョブズがいなくなればアップルのイノベーションは終わるという記事についても不平をもらした。
「あの記事には傷つきました」がっくりと気落ちしたし、自分は正しく評価されていないと感じたとも打ち明けた。
パロアルトに戻ったジョブズも内心に暗いものを抱えていた。
自分は必ずしもアップルに必須の存在ではないのかもしれないとの思いにとらわれていたのだ。2009年1月に療養を発表したとき80 ドルたった株価は、5月末の復帰時、140ドルと自分がいないあいだもそれなりに評価されていた。
ジョブズが病気療養に入った少しあとにおこなわれたアナリストとの電話会議では、いつも落ちついて話すクックが珍しく、ジョブズがいなくてもアップルは大丈夫だと力説した。
下巻 P.311

アイブも、ジョブス本人さえも、あれだけの成功を収めていながら、
なお承認欲求があるんだな、ということに驚く。
もはや金なんかいらないから、最後に残るのは名誉欲なのかもしれないね。


日本の寝ぼけた新聞、出版へ

日経だけが真面目に取り組んでる印象。
みんな、寝ぼけてる。
で、突きつけられて初めて気づくんだろうな、手遅れだって。

アップストア経由の購読でも読者の電子メールアドレスやクレジットカード情報を渡すべきだと夕イムズ紙発行部門の役員が求めたが、それはできないとジョブズに断られてしまう。
これに怒った役員が、その情報をタイムズ紙に渡さないなどありえないと迫るがジョブズは動じない。
「その情報をくれと客に頼むことはできる。
ただ、その情報を渡したくないと客が思ったとき、ウチに文句は言わないでほしい。
嫌なら使わなければいいんだ。
お宅が困っているのは僕のせいじゃないからね。
この5年間、新聞をオンラインで公開しておきながら、クレジットカード情報のひとつも集めずにきたのはお宅らなんだから」
下巻 P.336-P.337

結局、購読者の情報というのは、新聞社にとっても、
出版社にとっても、宝なんだよね。

顧客基盤を全部君に渡し、アップルに情報を集めさせるわけにはいかないからね。
そんなことをしたら、情報を独占したあと、雑誌1部を4ドルじゃなくて1ドルにしろと君らは言ってくるだろう? ウチの雑誌を購読してくれる人について、それが誰なのかを我々は知る必要がある。
そういう人たちのコミュニティーをオンラインで作れなければならないんだ。
そして、購読契約の更新については、直接、売り込める必要があるんだ。
下巻 P.339

でも日本の出版社にこの重要性を認識してる人なんてほとんどいないよ。


ボブ・ディラン、いいこと言うわ〜

前に進み続けるんだ。
そうでなければ、ディランが言うように、
「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」からね。
下巻 P.429

ディランは詩人だね。

ボブ・ディラン全詩集 1962-2001

ボブ・ディラン全詩集 1962-2001

ボブ・ディラン自伝

ボブ・ディラン自伝

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

UI、UXの前に基礎をおさえる。それが人間中心設計! 黒須正明/HDCライブラリー 第01巻 人間中心設計の基礎

ユーザー・インターフェース(UI)、ユーザー・エクスペリエンス(UX)という言葉が、
ここ数年ネットの記事とかでも盛んに出てきているけれど、
そういったユーザビリティの高いプロダクトやシステムを作るための
解決策や、方法論をまとめた概念として提唱されたのが人間中心設計。(Human Centered Design)

使用する対象が明確な場合は、ユーザー中心設計とも言われるし、
逆に万人にとって使いやすいものを目指す際にはユニバーサル・デザインって話になる。

そして、本書はそのタイトル通り、人間中心設計に関する基本的な考え方や、
調査方法などの各種手法について紹介する本。

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

全3巻で、本書は理論寄りでちょっと固い感じ。
続く2巻、3巻は海外、国内の事例紹介になっているので、
こちらも合わせて読みたいと思っているところ。

人間中心設計の海外事例 (HCDライブラリー)

人間中心設計の海外事例 (HCDライブラリー)

人間中心設計の国内事例 (HCDライブラリー)

人間中心設計の国内事例 (HCDライブラリー)

多様性

志向性に関する多様性を考慮することは基本なのだけど、
国内だとあまり意識しないのが宗教。
色に関しては全然知らなかったのでメモ。

http://www.e-manner.info/hospitable/custom.html

宗教
現在の日本では、宗教は個人の行動に対して強い影響力を持っていないが、文化圏によっては、現在でも強い影響力を持っている。
禁忌とされる色の使用など、時に注意が必要になることがある。
P.15

ユニバーサルデザインの定義と7つの原則

デザインって感性と論理が高い次元で融合しているものなんだよなぁ、と改めて実感。

ユニバーサルデザインを語るときに必ず引用されるのが、ノースカロライナ州立大学のユニバーサルデザインセンターで活動したMace, R. の定義と七つの原則(1997) である。
彼は、ユニバーサルデザインを「できる限り最大限すべての人に利用可能であるように、製品、建物、空間をデザインすること」と定義し、次の七つの原則を挙げている。

(1) 公平に使えること―デザインは、多様な能力をもった人々に使いやすく売れるものであること(Equitable Use)
(2) 柔軟に使えること―デザインは、好みや能力が人によって異なっていることに適応していること(Flexibility in Use)
(3) 単純で直感的に使えること―デザインされたものは、経験や知識、言語能力やその時の集中力の水準に関係なく、容易に使えるものであること(Simple and Intuitive Use)
(4) 情報が知覚できること―デザインは、周囲状況やユーザーの感覚能力に関係なく、効果的に情報を伝えられること(Perceptible Information)
(5) 失敗に対して寛大であること―デザインは、偶然に、あるいは意図せずに何かをしてしまっても、危険な結果や不利な結果に至る可能性を最小に抑えること(Tolerance for Error)
(6) 身体的な努力を少なくすること―デザインは、効率的に、また心地よく使えて、疲労を最小に抑えるものであること(Low Physical Effort)
(7) 接近して使えるように大きさと空間の余裕を確保すること―ユーザーの身体の大きさや姿勢、移動能力に関係なく、接近し、手が届き、操作をし、利用できるよう、適切な大きさと空間の余裕を確保すること(Size and Space for Approach and Use)
P.18

ニールセンのヒューリスティック評価

これはニールセンが考える評価ポイント。
自社のサービスやプロダクトのチェックポイントとしてすぐに活用できそう。
ユーザビリティとユーティリティの話も考えさせられる。
ユーティリティの過剰な重要視は、よく言われる日本のメーカーの
ものづくりが陥った罠の1つなのかな。

単純で自然な対話を行うこと、ユーザーの言葉を話すこと、ユーザーの記憶の負担を最小にすること、一貫性を持たせること、フィードバックを与えること、明瞭な出口を設定しておくこと、ショートカットを用意しておくこと、良いエラーメッセージを提供すること、エラーを防ぐこと、ヘルプやドキュメントを用意しておくことの10項目である。
このように、評価法を適用したときにユーザビリティが高いといえるのは、発見される問題が少ないことを意味しており、ネガティブな面を少なくすることが高いユーザビリティを持つことと考えられてしまうことにつながった。
そうしたnon-negative な面でのユーザビリティは商品性につながらないという理由から、ユーザビリティ活動の普及には今一歩拍車がかからない状態が続いた。
他方、機能や性能を意味するユーティリティはpositive な製品の魅力につながるものであるため、当時の企業における関心はユーティリティ重視の方向に傾いてしまっていた。
P.24

経験マーケティング

経験価値とかの話。

Schmitt (1999) は、伝統的なマーケティングが、機能的な特性と便益に焦点をあてており、製品カテゴリーや競争を狭い領域の中で行っており、顧客を合理的な意思決定者ととらえており、分析的で計量的、言語的な方法と手段を用いてきた、と見ている。
その結果、ネガティブな面としては、測定や分析の正確さにこだわり、現場を考えず、顧客の真のニーズに焦点を当てずにきてしまう傾向があった。
これに対し、経験マーケティング(experiential marketing) では、顧客の感覚や感情、精神への刺激によって引き起こされる経験に焦点化すること、特定の商品に注目するのではなく消費状況全体を考察すること、顧客を合理的であると同時に情緒的な動物であると捉えること、そして方法やツールについては折衷主義をとることを特徴とする、と述べている。
P.46

そんでもって、顧客満足とかCRMに対する批判。
これ、一理あるよな。
ただ、CRMって狭義には取引が焦点なのかも知れないけど、
ある程度システマチックに仕組み化できたから普及したんだよなぁ、とも思う。
まぁ、この手の話は使い方次第だし、欠点を知りながらいかに使うかだよな、とは思う。

なお、2003 年の著書では、Schmitt は伝統的なマーケティングアプローチから、マーケティングコンセプト、顧客満足(CS:Customer Satisfaction)、CRM (Customer Relationship Management) を取り上げて批判している。
つまり、Kotler(2000) の言うマーケティングアプローチは、顧客のニーズに焦点を当て、顧客を満足させるということだが、実際にはエンジニアリング中心であり、また顧客よりも製品マーケティングに焦点を当てたセールス志向であるという。
また顧客満足は、機能や性能に焦点をあてており、顧客そのものを見落としており、経験に焦点をあてた方がプロセス志向的であるという。
さらにCRMは、顧客データベースを活用していながら、取引そのものに焦点をあててしまっており、顧客との関係構築を重視していないという。
P.46-P.47

フィッツの法則とヒックの法則

人間工学の分野の話。
画面操作に関するものがフィッツの法則、選択反応時間に関するのがヒックの法則。
こういうのも数式で法則化されてるんだね、というお話。

フィッツの法則(Fitts 1954, Fitts and Peterson 1964) は、人間のポインティング動作に関するもので、概念的にいえば、遠くにある目標ほど時間がかかり、サイズが小さい目標ほど時間がかかる、というものである。
P.169

ヒューマンエラーとその対策

人は間違うものだから、間違えた時のリカバリーも設計しておくという話。
こういうのって人の創意工夫が詰まってる感じがして、とても面白い。

フォールトトレラントと関係した考え方として、エラーを犯してもシステムが安全側に作用するように設計するフェールセーフ(fail safe)という考え方がある。
水道の蛇口には、水を出すためにレバーを下げるタイプと、レバーを上げるタイプがあるが、重力という自然法則を考慮した場合、万一の場合には後者の方が優れている。
また、運転者に不測の事態が発生しハンドルやペダルから手足を離した場合に列車が自動停止するような仕組みは、デッドマンブレーキ(deadman brake) と言われる。
また誤った操作をしようとしても危険な状態にならないように設計することをフールプルーフ(fool proof) という。
たとえば自動車で、ギアがドライブの状態の時はエンジンキーが有効にならないような設計は、予期しない発進による事故を防ぐのに役にたっている。
また誤った操作をしてしまった後、それをもとの状態に戻すundo という機能は、たいていのコンピュータのアプリケーションに備わっている。
P.172

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

平易にまとめられたいわゆる現代思想のダイジェスト。 佐々木敦/ニッポンの思想

日本の現代思想の流れをざっくりとまとめてくれた良書。
まぁ、もちろん厳密に言うと突っ込みどころは色々あるのだろうけど、
これくらいざくっと書いてくれた方が大局が掴めて便利。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

佐々木敦のイメージは思想家というよりも、
音楽評論家、とくにノイズとか、現代系の音楽のってイメージだった。

ex‐music

ex‐music

いつの間にやらこういう立ち位置になっていたのですね。


特殊でありたい=凡庸

人と違う存在でありたいということ自体が凡庸。
人と違うと思ってるやつこそ普通。
逆説的だけど、本当に変わってるというやつは自分のことを変わっているとは思っていない。

蓮實はそもそもこのような「変えているつもりが似てしまう」こと、すなわち「特殊であろうとすることがそのまま凡庸さでもある」という逆説を「近代(人)」の特徴だと考えています。
ひととは違うこと、他者との差異を強調しようとすればするほど、それは他者(たち)と同様の「凡庸」な欲望に突き動かされていることになってしまうわけです。
これはつまり「自分のことを変わっていると思っている者がいちばんフツウ」ということです。
そして、どうしようもなく「フツウ=凡庸」であるにもかかわらず、というか、ぞれゆえに「変わっていること=特殊」をやみくもに求め、それどころか実際に「自分は変わっている」と誰もが勘違い出来てしまうような環境を評して、蓮實は「自由」の皮をかぶった「不自由」だと述べているのです。
P.113 - P.114

作者とは何か

作者の考えは何か、作者の気持ちは?
文系は作者の気持ちでも考えてろ、っていう揶揄が出てくるように、
作品=作者のものであり、作者の意図を読み取ることが読むことだと錯覚している。
作者の思いを慮るのではなく、自分がどう思うか、何を感じるか、こそが重要なのだけど。
まぁ初等教育からそういう誤解を植え込んでくるこの国においては、
作品=作者のもの、作者の意図=答えが本の中に存在している、といった
暗黙の前提に縛られている人が大多数になってしまうのは致し方ないのかもしれない。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。
ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の神秘的性格を明らかにしたのはヴァレリーである。
彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく”作者”というものをつくり出すのだと考える。
作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった”作者”をたえずつくり出すのである。
たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。
かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される”作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。
P.119

本当は、作品が作者を作り出している。

このような考え方は一見、いわゆる「テクスト論」的なものに思えます。
すでに六〇年代から、文学理論の分野ではロラン・バルトが、哲学においてはジャック・デリダミシェル・フーコーが、ごく大まかにいえば、文学作品=書かれたもの=「テクスト」を、本来その造物主であるはずの書き手=作者から分離し、作者の意図やその背景を成す伝記的事実とは完全に別個に、より自由で多様な読解可能性へ「テクスト=織物」を押し開いていくことを提唱していました(初期の蓮実重彦が参照したヌーヴェル・クリティックもこうした傾向を強く持っています)。
実際、柄谷はこの後、七五年にイェール大学に客員研究員として滞在した折に、アメリカにおけるデリダ受容=テクスト学派=脱構築批評の最大の立役者であるポール・ド・マンの知己を得て、追ってはデリダ自身とも親交を結んでいきます。
「作者」が「作品」を作り出すのではなくて、その逆(「作品」が無数の「作者」を生成する)なのだという転倒は、「作者の死」(バルト)や「テクストの外には何もない」(デリダ)といった言葉と確かに相通じています。
P.119 - P.120

作品の研究が作者の研究になりがちなのは、作者の意図を重視するからに他ならない。
本当は、作者が執筆当時どうだったかなんて作品と関係ないじゃんって感じなのだけど、
結局そういうわかりやすい物語の中に作品を位置づけた方が楽なんだろうな。

ものがたりというわかりやすさってとても危険だと思っていて、
特にわかりやすい話ほど裏がある。

筆者の理解だと、もっとも純粋に、つまりはもっとも素朴に理解された「テクスト論」とは、一種の読者至上主義です。
それはつまり「書くこと」に対して「読むこと」の自由を上位に置くことです。
漱石の「作品」の「読解」の数だけ「夏目漱石」という「作者」が生成される。
この「読解」の自立性と恣意性と多様性が「テクスト論」の切り開いた可能性でした。
がしかし、それはすなわち、ひとつひとつの「読解」の正当さ(真の理解)というものも、絶対的に保証されないということです。
「読者」の数だけ「作者」がいる。
けれども具体的な「作品」は相変わらずひとつです。
「作者」から特権性、専制性を剥奪して、多様な「読解」の側に軍配を上げることは、いわば「作者」も「読者」のワンオブゼムに置くことです。
となると結局のところ、あらゆる「読解」は、また別の異なる「読解」の可能性によって押し流されてしまう。
一個の「作品=テクスト」から「書いたつもり」ではない「読み」が幾らでも可能になるということを認めると、それらがすべて「読んだつもり」でしかないということも認めざるを得なくなる。
どこまでいっても「作品」の「真実」にはたどり着かない。
P.121 - P.122

まぁ、読者至上主義で良いと思うけどなー。
主体的に読むことの重要さをもっと伝えていった方が良い気がする。


ポスト・モダン

すべての価値が相対化され、支配的な価値観やものがたりが無くなってしまった時代。
所詮、ある視点においては、とかある価値観においては評価されるってだけで、
なんとも熱しにくい世の中だなぁとは思う。
まぁ、でもしょうがないよね。
価値観とは多様なものだ。

リオタールは、この本のなかで、「モダン」の時代を支えていた、「人間」の理念と実践の一致を「正当化」する「普遍的」な「価値」を担う「大きな物語」群、たとえば「自由」「革命」「正義」などといった概念が、今日の現実においては失墜し、もはや成立しがたくなってしまっていると述べ、それが「ポスト近代」の特徴だと言っています。
「大きな物語」とは「理想」や「大義」と言い換えてもいいものだと思います。
他にも色んなものが代入出来るでしょう。
マルクス主義」とか「美」とか「文学」とか、そもそも「人間」や「正当」や「普遍」や「価値」だって「大きな物語」です。
そして、ここからはリオタール自身の記述というよりも、『ポストーモダンの条件』出自の「ポストモダン」論の「ニッポンの思想」におけるパラフレーズということになるのですが、「大きな物語」が終わった後には、無数の「小さな物語」が散乱したまま残されることになります。
この「小さな物語」を、リオタールはウィトゲンシュタインに倣って「言語ゲーム」と言っていますが、もっと大まかな意味で、それは「小さな価値観」というか「それぞれの価値観」というか、たとえば「趣味嗜好」に代表されるような「個別的相対性」とでも呼べるだろうと思います。
こうして「ポストモダン」は、いわゆる「価値相対主義」(すべての価値判断は相対的であり、絶対は絶対にない)を導き出すことになります。
P.143

オタク=薬物依存

自分も結構オタクな方だとは思うけれど・・・
でも、この依存的な感じは良くわからん。

冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。
あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭のなかで回り続け、あたかも取り憑かれたようだ、というのは、少ながらぬオタクたちが実感を込めて語る話である。
それは趣味よりも薬物依存に似ている。
「薬物依存者」の「ドラッグ」が「萌え要素」に変わったのが「オタク」であり、彼らの「単純かつ即物的」な「依存」のありようが「動物化」と呼ばれます。
それはペットがエサに「取り憑かれる」のと同じだからです。
そういえば筆者は、ここでいわれているのとほぼ同様の「依存」を、かつて「テクノ・ミュージック」によって体験したことがあります。
それはまさしく「脳の結線が変わってしまったかのように同じ音が頭のなかで回り続け」る体験でした。
P.309 - P.310

これ読んでて、自分がテクノにハマりきらない理由がわかった気がした。
きっと全然、脳の結線が変わるほど聞いてないのだな・・・
いずれにせよ、最近そこまでハマるものも無くなってきてしまったのは寂しい限り。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

具体的かつビジネスに即した形でデータ分析を扱う入門書は貴重! 上田隆穂、田島博和、奥瀬喜之、斉藤嘉一/リテールデータ分析入門

やってる人はみんなやってる。
で、やってない人はまずやりたい。
そんなデータ分析がPOSなどを通じて集まる購買データ(=リテールデータ)分析だろう。

本書はリテールデータの分析に特化した入門書。
こういう目的でこういう分析をしてみよう、みたいなのが
とても具体的に示される。

もちろん物足りない点もあるけれど、これだけ実際のビジネスに即した形で、
データ分析の手法、その分析をするために必要なデータの形まで解説してくれる本は
これまで無かったように思う。

実際にビジネスの現場で周りにデータサイエンティストなんていないし、
でも、なんかこの領域に可能性を感じている世の一般的なビジネスマンには
とても有用なんじゃないかな。

リテールデータ分析入門

リテールデータ分析入門


データ分析ベースのCRMは万能じゃない。

反復来店は、感情的コミットメントや認知的努力を削減する動機づけといった消費者心理によっても引き起こされる。特に、感情的コミットメントは競合他社へのスイッチをよく防止し、より安定的な反復来店を生み出す。また感情的コミットメントは他の消費者へのポジティブな口コミの発信もよく引き起こす。ID付きPOSデータに基づくCRMの注意点は、計算的コミットメントをよく高めるけれども、感情的コミットメントを大きく高めることは期待できない点にある。
P.64

感情的コミットメントを高めるためには、企業に顧客志向が根付いていないとダメ。
クーポン発行などだけでは感情的コミットメントは醸成されないことは肝に銘じておかないと。
実際、その壁を越えていかないと真のリピート率向上には至らないんだろうな。

また、顧客がリレーションシップを望まない場合、
企業側からそういった顧客にアクセスすることは顧客の離脱を招いてしまうリスクすらある。

ちなみにどうすりゃ感情的コミットメントを作れるの?って話に関してはこんな感じ。

感情的コミットメントをつくり出すために小売業者に求められるのは、支払価格や推奨する商品をパーソナライズすることではなく、顧客1人1人の自分史において多かれ少なかれ特別な存在になることである。
P.67

ECの分野はどんどんパーソナライズ、One to One、マーケティング・オートメーションだと
騒がれているけれど、そういうのはいずれみんなやるんだろうし、差別化要因にはならない。
顧客にとって特別なお店としていられるか、究極的にはそこがポイントなんだろう。
じゃあ、どうやってそのリレーションを作っていこうか。
悩ましいけどね。


会員が店員!

紹介されていたPFSCの事例がめっちゃ面白かった。

ブランド・アタッチメント形成の究極の企業事例として挙げられるのは、アメリカ・ニューヨーク、ブルックリンにある会員制のスーパー(生協)、「パークスロープフードコープ(Park Slope Food Coop:以下PSFCという)」であろう。PSFCの店内には、近郊でとれたオーガニック野菜や珍しい種類の果物などが、ホールフーズマーケットの約半値以下で売られている。このPSFCの会員になるための条件の1つは、4週間に一度、2時間45分店で働くというものである。なんと、この店で食品を安価で買うためには、労働しなければならないのである。それにもかかわらず、PSFCには15000人以上の会員が登録しており、わざわざ郊外から1時間以上かけてこの店にやってくる会員もいるという。PSFCでは、会員が店員を兼ねることで、人件費の削減や、安値での買い物を可能にしているだけでなく、ワークシェアをすることによって、会員同士のコミュニティが形成されたり、自分がPSFCのオーナーであるという所有意識を持たせたりすることにも役立っているという。
P.153


リテールデータ分析入門

リテールデータ分析入門

最新の事例や研究成果が盛り込まれている決定版の教科書。 マイケル・R・ソロモン/ソロモン 消費者行動論 中

この上中下巻は、1冊の分厚い教科書を3分冊にしたもの。
従って、ページ数の表記は上巻から続いている。

うまいこと日本の最新事例を盛り込んでいるのが本書の特徴で、
読み物としても面白い本に仕上がってる。

ソロモン 消費者行動論 [中]

ソロモン 消費者行動論 [中]

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自己啓発書とは何なのか、そこから炙り出される社会の側面とは、今年一番の面白さだった!! 牧野智和/日常に進入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ

今年読んだ本の中で、今のところベストなんじゃないかというくらい面白かった。
今や書籍の一大ジャンルになっている自己啓発本
その自己啓発本の歴史を紐解き、分類していきながら、
どのような主張がなされてきたか、それがどのように受容されてきたかを
フランスの社会学ピエール・ブルデューフレームワークを用いて整理していく。

何を行うことで自分にとって、あるいは他者に対して、自らの存在(アイデンティティ)が証明できることになるのか、その存在証明の区分線を浮き彫りにすることにある。
どのような振る舞いが、どのように卓越的な、あるいは劣るものとしての位置づけを施され、また優劣の両極にはどのような人々が配置されるのか。
今日における通俗的な差異化・卓越化(ディスタンクシオン)の一形式を、自己啓発書を素材にして明らかにすること――それが本書の目的である。
P.5

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ

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必要以上に群れる必要は無い。一人でいられる強さみたいなものは大切。 山田玲司/非属の才能

非属の才能とはどこにも属さず、迎合しない才能のこと。
同調圧力が強く、空気の読み合いがコミュニケーションになっている
現代においては、なかなか育ちにくく、生き辛い才能だと言える。

というか、普通に生きてると才能つぶされやすい環境が蔓延しているような気がする。

でも、人と違うことってめちゃくちゃ重要だし、
それこそが才能でしょう、ってのはまったく持ってその通り。

それを貫き通せるかってのが難しい問題なんだけど、
まぁこれはきっとこれからも難しく、人は成長するにつれ凡庸になっていくのでしょう。
じゃないと、本当に貫き通した稀有な人たちは稀有だからこそ価値があるわけで、
たくさんいたら成立しない気もする。

とりあえず思春期の子供に読ませてみたいような気もする、というか
そういう売り方をしている本でもあるのだけど、
実際のビジネスにおいては非属過ぎてもうまくいかんしなぁ。

子供が超非属な感じになったらわかっていても心配してしまう気がする・・・


非属の才能 (光文社新書)

非属の才能 (光文社新書)


同調したり、群れたり・・・

まぁ、誰かがその理解者になってあげられると当人は幸せだろうね。
家族はもちろんだけど、家族以外で見つかるともっといいな、とは思う。

どんな人も、多かれ少なかれ「学校では評価されない才能」を持っている。
ある人は、「他人の気持ちがわかる」という才能かもしれない。
またある人は、「いるだけでその場が和む」という才能かもしれない。
はたまた、「とにかく歩ける」という才能の持ち主もいるだろう。
そういった見過ごされがちな些細な才能こそが、のちのち大きな才能へと育っていくことはこれまで述べてきた通りだ。
重要なのは、その才能を理解してくれる「理解者」がひとりでもいるかどうかということだろう。
P.41

SNSとか普及してなんとなくつながりとかが大切な感じになってるけど、
そういうのはほどほどにして、一人でいられる強さみたいなものを
持てるといいなとは思う。

たしかに、人間はゆで蛙ほどバカではない。
ただしそれは、「ひとりでいれば」という条件付きのことかもしれない。
群れた途端に危険を察知する感覚は鈍りはじめ、群れの感覚を優先するようになり、しまいには蛙と同じくバカになってしまう(実は、ゆで蛙の話は寓話にすぎず、実際に実験を行うと、蛙は熱くなってきたら自分から飛び出すという。
ということは、人間は蛙以下のバカということだ)。
「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、それは自分の頭で考えることのできる人間か集まったときの話で、「三人寄れば場の空気で」といったことのほうが多いのが現実だろう。
P.105

本読んだり、映画見たり、何でもいいのだけど、
一人の時間を充実させられる人は素敵だと思う。

非属の才能 (光文社新書)

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