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デザインって左脳と右脳の絶妙なバランスな気がする。だから楽しい。 D.A.ノーマン/誰のためのデザイン?

マッキンゼーがデザイン会社買収したり、
デザイン思考みたいな言葉を目にする機会が増えたり、
何かと注目を集めつつあるのがデザイン。

そういう文脈とは別に、UI/UXみたいな物への関心から、
一連のデザイン系の本を読んでいるのだけど、
この本はデザインという物に対する考え方をまとめた本。
とりあえず読んどけ、といって構わないような定番本。

まぁでもデザインって単純に面白いよね。
素敵なデザインの物を見るだけでも楽しい。
それが日用品でも、家電でも、車でも、建築でも・・・。
デザインって左脳と右脳の絶妙なバランスな気がする。
そこには機能性と芸術性の両方があって、だから楽しい。

で、買っておいたのだけど読むまでに増補改訂版が出てしまった・・・。
今ならそちらをお買い求めいただく方がよろしいかと思われます。

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)


情報は頭の外にある

さらっと書いてあるから読み飛ばしがちだけど、結構大事なポイントな気がする。
頭を記憶媒体と捉えがちだけど、外部に溢れている大量の情報処理装置なんだよな。

人は、ものの配置や置き場所、文書、他の人が持っている情報、ある社会において作りだされたもの、文化の中や文化によって媒介される情報に依存している。
たくさんの情報がつまっているのは世界の中であり、頭の中ではない。
謝辞 P.9

見えるもの、見えないもの

何を見せて、何を見せないのか。
無意識に誘導させるのがデザインの力。
確かに優れたデザインの製品はマニュアルとか読む必要ないもんな。

ユーザは手助けを必要としている。
どの部分がどのように機能するか、そして、ユーザがその装置とどのようにやりとりをしたらよいかをはっきりさせるためには、適切なものがちゃんと見えていさえすればいい。
可視性は、しようとしている行為と実際の操作の間の対応づけを示している。
可視性によって、たとえば、塩入れとこしょう入れといった重要な違いを知ることができる。
操作の結果が見えること(可視性)によって電灯がちゃんと点灯したかどうか、映写幕が適切なところまで降りたかどうか、冷蔵車の温度が正しく調節されているかどうかを知ることができるのである。
コンピュータによって制御された装置の多くが使いにくいのは、この可視性がないためだろう。
また、ごちゃごちゃと機能がついたオーディオセットや、ビデオテープレコーダがユーザを威嚇せんばかりなのは、この可視性の過剰のせいだろう。
P.12 - P.13

ワークフローとかも同じ。

なんらかのエラーが起こりうる場面では、だれかがそのエラーを引き起こすだろう。
デザイナーは、起こりうるエラーが実際に起こることを想定した上で、そのエラーがおこる確率と、エラーが起こったときの影響が最小になるようにデザインしなければならない。
エラーは見つけ出しやすくなければならないし、その結果生じる損害は最小でなくてはならない。
できれば元に戻せるようにすべきだろう。
P.56

人は必ず間違うので、エラーが起きる前提で考えておく。
この辺はワークフローの設計も同じ。
組織やワークフローも要するにデザインなのだね。


右脳、左脳的な

人が思考しながら生活していくというのは、きちんとしたものでもないし、秩序だったものでもない。
きちんと論理的な形で優雅にすいすい進むといったものではないのだ。
というよりは、ある考えから別の考えに飛び移ったり、省略したり、あちこち動きながら、それまで関係のなかったものを結びつけて、新しい創造的な飛躍を生み出したり、新たな洞察や概念を作り出したりするのである。
人の思考というものは論理とは似ても似つかないものであって、その種類も考え方も根底から異なっている。
その違いが別に何か悪いわけでも良いわけでもない。
しかし、この違いこそが創造的な発見を生んだり行動の安定性を生んだりしているのである。
P.186 - P.187

ロジカルシンキングは必要だけど、
人は論理のみで生きるにあらず。
論理だけが正しい解へ連れて行ってくれるわけではない、ってのが
わからない論理だけ人間にはなりたくない。
そしてそういう論理だけ人間はなるべく蹴散らしたいな・・・。
そもそもイノベーションはロジカルな物ではない。
オペレーションとイノベーションは別物で、
世の中全部オペレーションだと思っている人間につまんない人が多い印象。


どこまで本気で重要視するか

端から見ていると、技術者とかコンピュータ科学者が何か製品をデザインをしようと頑張っているところは、おもしろいですよ。
たいていの場合、どのようにするか議論に議論を重ねて、本当にユーザにとってよいと思えることをしようと真剣ですね。
ところが、問題がユーザインターフェースとその製品の内部機構のトレードオフになると、ほとんど間違いなく話が簡単にすすむようにしてしまいがちですね。
結局彼らもそれを作らなくてはならないわけで、内部機構はできるかぎり単純にしようとするわけです。
内部構造のデザインのよさがユーザインターフェースのよさにつながることもありますけれども、常にそううまくいくわけではありません。
デザインをするチームの中には、最終的にそのインターフェースを使う人の立場を口やかましく述べるような人が本当に必要だと思いますね。
P.255

これは他人事ではないな。
ユーザーのため、使いやすくしないと、とか言っていても
トレードオフが生じるととたんに諦める、妥協する、ってのは良くある話。
そこにどこまでこだわり抜けるか、本当に重要視できるかってのは
常に突きつけられる問題。

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

世界最強の諜報機関? そんなのは映画の中だけの幻想。実態はどこにでもありそうなダメ会社!? ティム・ワイナー/CIA秘録

この手の話は、眉唾ものというか、根拠のない噂レベルの陰謀論
まことしやかに書いてあるだけのものが多い。
まぁそれはそれで楽しかったりはするのだけど、本書はちょっと違う。

ニューヨーク・タイムズの記者が5万点の機密解除文書、
10人の元長官を含む300人以上のインタビューを元に、
すべて実名証言で書いた「CIAの本当の歴史」ってのが本書の売り文句。

アメリカでも評判のようで、全米図書賞を受賞している。

CIA秘録上

CIA秘録上

CIA秘録 下

CIA秘録 下

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

そして、それだけの取材の結果浮かび上がってきたCIAの実態、
それはなんとも不格好かつお粗末な諜報機関の姿だった。

情報が錯綜し、何が真実なのかわからず翻弄される姿は、
私たちが映画などで見る世界の情報を自在に操るなんだかすごい人達の姿とは似ても似つかない。


翻弄されるCIA

ヨーロッパのいたるところで「政治亡命者やかつての諜報要員、元工作員、その他さまざまな大問が諜報の大物専門家に早変わりし、注文に応じて捏造した情報の売り買いを仲介するようになっていた」。
ヘルムスのスパイがカネをかけて情報を買えば買うほど、情報の価値は下がっていった。
「よく考えもしない問題にカネをどんどん注ぎ込む、これ以上の事例は思いつかない」とヘルムスは書いた。
ソ連やその衛星国の情報として流されたものは、有能なうそつきどもが紡ぎ出した偽情報のつぎはぎだった。
ヘルムスは後に、ソ連と東ヨーロッパに関するCIAのファイルに蓄積された情報の少なくとも半分は間違いだった、と認めた。
ベルリンとウィーンにあるヘルムスの事務所は偽情報の製造工場だった。
事務所には事実と作り話を区別できる職員も分析官もいなかった。
偽情報にふりまわされる諜報機関という問題は、その後、アメリカのインテリジェンス(諜報)につねにつきまとう問題となる。
上巻 P.37

とまぁ、こんな感じで、報告される情報の何が真実なのか、
さっぱりわからずに振り回されまくっている。

まぁそれは昔の話で今は素晴らしい組織として建て直されているのだろうと思いきや、
以下の話から割と最近でもまだグダグダらしいことが見て取れる。
まぁ、だからと言って諜報機関を持たないという選択肢はないのだと思うけれど、
CIAが常に信頼された組織ではないということ。

第二次大戦中は「イギリスの優れた諜報システムにわれわれは盲目的に、全幅の信頼を置いて頼るはかなかった」とバンデンバーグはいう。
しかし「これからはアメリカも世界を見る目-対外諜報-を外国政府に物乞いするようなことをしてはならない」。
とはいえ、CIAはいつも白分たちに理解できない国や言語への洞察となると、外国の情報をあてにしてしまう。
バンデンバーグは最後に、アメリカ人スパイの専門的な集団を育成するには、少なくともさらに五年を要するだろう、といって締めくくった。
この警告はそれから半世紀後の一九九七年に、CIAのテネット長官が、ほぼその言葉通りに繰り返すことになる。
しかもテネットは二〇〇四年に辞任する際にも再度、同じことを口にした。
完全なスパイ組織は、いつも五年先の地平線のかなたにある、というわけだ。
上巻 P.45

なかなか満足いく組織にはなれないようだ・・・
まぁ、人材育成も難しそうだし、下手すりゃ二重スパイを送り込まれるし、
人材は頭痛い問題なんだろうなぁ。


唯一うまくいった方法論、それは選挙資金のばら撒き!

まぁでもうまくいったこともある。
それが金をばら撒いて選挙を操作すること。
資本主義 VS 共産主義、あるいは独裁主義にたいして、
民主主義および資本主義の代表として支援する、それがアメリカであり
そのための工作をしたのがCIA。

選挙で金がものをいうのはどこの国でも一緒なんだな。

数百万ドルは、イタリアの政治家やバチカンの政治組織である「カトリック行動」の神父らに配られた。
現金を詰め込んだスーツケースが、四つ星のハスラー・ホテルで手渡された。
「われわれとしてもできればもっと洗練されたやり方でやりたかった」とワイアットは語っている。
「選挙に影響を与えるために黒い袋を渡すなどというのは、あまり惚れ惚れするようなやり方ではなかった」。
しかし効果はあった。
イタリアのキリスト教民主党はまずますの差をつけて勝ち、共産主義者を排除した政権を樹立した。
同党とCIAの間の良好な関係が始まった。
CIAが現金の詰まった袋で選挙や政治家を買収するしきたりが、イタリアやその他の多くの国で繰り返されるようになり、その後二十五年もの間、続くことになった。
上巻 P.51

こうしてアメリカに首根っこ掴まれた政治家が国の中枢に入り込んでいくわけだ。
ちなみに日本もそのばら撒き作戦の成功事例の一つ。

CIAには政治戦争を進めるうえで、並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。
それは現ナマだった。
CIAは一九四八年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。
しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった。
上巻 P.177

岸信介はアメリカの支援のもとトップに上り詰めた男。
そして政治資金をばらまく以外に、文化の浸透のために雑誌を創刊していたりするというのは驚いた。

これは言葉の戦争だった。
小さな雑誌やペーパーバックの本、高尚なテーマの会議などをもって戦われる戦争だった。
「私が担当していた文化自由会議の一年間の予算は、おおよそ八十万ドルから九十万ドルだった」とブレイデンはいう。
これには、高級月刊誌『エンカウンター』の創刊に必要な資金も含まれていた。
この雑誌は四万部以上は売れなかったが、一九五〇年代にそれなりの波紋を巻き起こした。
これは、CIAに新しく入ってきた文科系専攻の人間にうける、使命感を刺激する仕事の一つだった。
パリやローマで小さな新聞や出版の仕事をする−−アメリカの諜報員が新米時代に海外で送る暮らしとしては、結構なものだった。
上巻 P.63

新聞や出版の仕事をCIAの職員がやっていたとは!
でもこれなら、ちょっとお気楽そうだな・・・。


中国や朝鮮に対しては失敗続き

北京は後に満州での成果を放送した。
それによると、CIAは二百十二人の外国人工作員を降下させたが、このうち百一人は殺害され、百十一人は捕獲された。
上巻 P.96

スパイというのは捕虜扱いされないらしいね。
しかし、戦争時に諜報機関が偽の情報に踊らされたり、
自らの情報がだだ漏れだったりすると、当然シャレにならない。
でも、そんなシャレにならない状態だったっぽいんだよね、これ読むと。

朝鮮では、CIAはあらゆる面で失敗した。警告を発することにも失敗、分析を提供することにも失敗、そして採用した工作員たちを向こう見ずに展開したことの失敗など。その結果、アメリカ人にもアジアの同盟国の人々にも、何千人という犠牲を出した。
三十年後、アメリカの元軍人は、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んだ。CIAではこの戦争のことを意図的に忘れようとしている。幻のゲリラに武器をつぎ込んだ一億五千二百万ドルの無駄遣いは、会計簿のうえではうまく帳尻を合わせられた。朝鮮戦争時の情報の多くが偽か捏造であった事実は、伏せられたままになった。一体どれくらいの人命が失われたのかという問題も、問われもせず、答えも出されなかった。
上巻 P.97 - P.98

スターリンが死んだ時、CIAでは・・・

「一九四六年からこの方、専門家と称する連中がみんな、スターリンが死んだとき何が起きるとか、われわれが国家としてどう対処すべきだとか、あれこれ言い募っていた。さて、彼は死んだ。みんな政府内部のファイルをひっくり返して、何か計画が作られていたか調べてみたが、骨折り損だった。計画は何もなしだ。彼が死んだ後、どんな変化が生じるかさえ定かには分からない」と噴りをぶちまけた。
上巻 P.112

それまで散々色々調べていたのに、いざとなると何もわからない。
大統領の立場だったらお前らアホか!と憤る気持ちはわかるけど、
このグダグダ感には、お前らCIAとか言ってるけど普通のサラリーマンなんだな、みたいな
親近感も感じてしまう。
なんか非現実的な組織のイメージだったけれど、それは誤解で実に人間的だ。


核戦争の危機はリアルに存在していた

一九五三年八月、ソ連が最初の大量破壊兵器-熱核爆弾と言えるものではなかったが、それにかなり近いもの-の実験を行った際、CIAはまったく手がかりを持たず、予告もできなかった。六週間後、アレン・ダレスがソ連の実験に関して大統領に説明したとき、アイゼンハワーは遅きに失する前にモスクワに全面核攻撃を加えるべきかどうか思案していた。
大統領は「決断するときが迫っているようだと言い、「いまわれわれが直面しなければならない問題は、こちらの持てるすべてを敵に一挙にぶつけるかどうかだ」と語った。この発言は、秘密扱いを解除されたNSCの会議録に残っている。とりわけ、ソ連の保有する核兵器が一発なのか千発なのかアメリカ側に知るすべがないときに、「敵の能力におびえて震えるなどは無意味なことだけに、大統領の問いかけは恐ろしいものだった」。
上巻 P.115

ここでもまったく手がかりを持ってなかった、というのが衝撃。
そしてそれだけ不正確な情報の中で意思決定を迫られる方にしてみれば、
CIAなんていない方がシンプルでいいんじゃないか、と思ったり。
結果的には起こらなかったが、当時検討されていた可能性の中に、核によるモスクワ攻撃があったという事実、
結構人類はスレスレの所で生きていたんだな。
そしてこんなことはこれからもあるのかもしれない。
そう考えると、恐ろしいな。


バカな上司が改革しようとするとこうなる

本当に、CIAも普通の会社なんだな、と思ったエピソードがこれ。

挫折秘密諜報機関としてのCIAの崩壊は、ヘルムスが本部を去り、ジェームズ・シュレジンジャーが着任した日から始まった。シュレジンジャーはCIA長官を十七週間務めた。その間に、この秘密機関から五百人以上の分析官と一千人以上の人員を追い出した。海外勤務中の職員は無署名の暗号電報で解雇を通告された。これに対して、シュレジンジャーは命を狙う匿名の脅迫を受け、自分の警護のために武装警備員を雇うはめになる。
下巻 P.116

親と上司は選べない。
上司は必ずしも優秀とは限らない。
無能にやる気がないとも限らない。
無能でやる気のあるやつ、これが結構厄介。
しかし、本当にこの本はCIAのイメージ崩れるわ。
特に予備知識もない日本人が読んでもそう思うくらいだから、
本国では結構衝撃だったんだろうな・・・。

そして組織が硬直化してくると、採用が平準化していく。
お利口な人たちが集まって、綺麗な組織を志向しだす。
この辺も会社と同じ。ダイバーシティや仕事へのロイヤリティをどう担保するのか。

何年かの問に、CIAは「少しばかり変わった人、常軌を逸した人、スーツとネクタイの似合わない人、協調性に欠ける人を雇う気がますますなくなっていった」とボブ・ゲーツは言った。
「心理テストでも、ほかのテストでもそうだが、われわれがやっているような種類の試験では、才気煥発だったり、途方もない才能と特有の能力があったりするかもしれない人が合格して、CIAに入るのはとても難しい」。
CIAは、文化的近視眼のおかけで世界を読み誤った。
その局員で、中国語、朝鮮語アラビア語ヒンディー語、ウルドウ語ないしペルシャ語-地球上の人口の半分に当たる三十億人が話す諸言語-を読み話せる者は、ほんのわずかしかいなかった。
一度でもアラブのバザールで値切ったり、アフリカの村を歩いたりした者は、ほとんど全くいなかった。
下巻 P.308

そして人は一朝一夕には育たない。
人材戦略を間違うと10年遅れる。
まさにそんな感じのお話。

といった感じで次から次へと等身大のCIAが明らかになっていく。
本書の衝撃を一言で語るならまさにこんな感じ。

何よりもまずアメリカの読者が驚いたのは、小説や映画そしてその他のノンフィクションの書物でも再三描かれてきた「万能のCIA」が、実はまったくの幻想だったことである。
下巻 P.380

万能な組織なんて、どこにもないんだな。

CIA秘録上

CIA秘録上

CIA秘録 下

CIA秘録 下

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈上〉―その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

CIA秘録〈下〉-その誕生から今日まで (文春文庫)

教科書にはないリアリティ、読むとやる気出る。 三枝匡/V字回復の経営

実際の自分のコンサル経験などを元にした
ノンフィクションに近いフィクション。
経験に基づいているので、再生までの道のりが結構リアル。
その辺の生々しさが教科書とは違う迫力があっていい感じ。

で、名著として知られるこの本が新装版として装いも新たに登場。

もともとこの話のベースになったクライアントがどこかは明かしていなかったのだけど、
元になった事例はコマツなんだそうな。

とにかく実践的な話が満載なので、このシリーズは本当にお勧め。



閉塞感だらけのだめ組織

身近なところに大混乱しているダメ組織があるのでいちいち身に染みる。
自分の事業に関してはこうなっちゃダメなんだよな、と気をつけながらやっていこうと思ったのだけど、
ダメ組織に関してはことごとく当てはまるから驚く。

組織の「政治性」は「戦略性」を殺す力を持っている。
政治性は、個人の利権・利害の混入、過去の栄光への執着、個人的好き嫌いなどによって生まれ、「正しいか正しくないか」よりも「妥協」重視の組織風土を醸成する。
P.31

政治性の根っこがどこにあるのか、それによって対応方法も変わるのだろうか。
利権、利害の混入、辺りはものすごく怪しい。
あと、意思決定者が不明瞭になり、どちらが主導権を握るかのパワーゲームみたいになるパターンもあるよな。
いずれにせよ、現場は疲弊する。まったくもって「正しいか正しくないか」の話なんてできない。

ダメ会社というのは、機能組織ごとに被害者意識を蓄積させるのですね。
そして、会社全体の赤字や負け戦なんて、自分のせいではないと全員が思っているんです。
しかもここ数年、なんとか状況を打開しようと、リーダーシップ不在のまま中途半端な組織変更や人事異動が頻繁に打ち出されてきました。
社員は皆うんざりしているのです。
P.80

このうんざり感とか被害者意識とかを変えさせるのは本当に大変。
被害者どころか、お前ら加害者なんだよ、って気がついて、
状況を自分事にできると劇的に変わるんだけど。


改革の障壁

こういう泥臭い話をしっかりととりあえげてるところが、リアルなんだよな。
逆にこの辺がわざとらしく、物語っぽいと感じる人がいるとすれば、
その人は人のごちゃごちゃに巻き込まれたことない人なんだろうなぁ、と思う。

そして改革はする方も抵抗する方も、真剣勝負。
「切るべきガンは切る」、切ることで本気度を示すってのが必要なときもあるよな。

強度の面従腹背
言い放しで構わない野党の強みを利用し、陰でかなり行動的に批判をばらまくので、それが改革者にも聞こえて関係がおかしくなる。
米国なら早々に退職ないしクビだが、日本ではそこまでいかずに居残るのが一般的。
そのため改革が成功しても新組織に同化せず(あるいは同化を許されず)、会社の隅でおとなしくしているしかない存在になる。
日本企業には、幼児性が強く甘えている社員が多いため、自分がどんな悪作用をばらまいているか自覚していない人もいる。
改革の成果を見てシマッタと思う(感情を先行させたために論理判断を間違えたと後になって気づく)人もいるが、感情的しこりが残っているので修復は難しく、後悔しても遅い。
そうなれば、もともと行動的なタイプのはずだからさっさと転職して楽しい人生を探せばいいと思うのだが、それほどのガッツもなく日陰で恵まれない人生を過ごす人も多い。
改革者の事前のコミュニケーション不足、稚拙なシナリオ、詰めの甘さ、急ぎすぎなどが確信抵抗型の出現リスクを高める。
お互いの不幸だから双方ともきちんと正面から話し合う努力をして、違いを理解し、早い段階でせめて中立型への移行を図ることができればいいが、現実にはそう簡単にいかないことが多い。
しかし改革者が遠慮すれば改革者が殺される。
この類型の人が否定的言動を続け、前向きな人々をくじけさせ、改革の積み木を崩そうとするなら、断固として「切るべきガンは切る」の蛮勇が必要になる。
P.88

分業による当事者意識の低下

事業が大きくなり、人が増え、分業体制が進めば進むほど、
当事者意識が低くなっていってしまう。
でも分業体制を敷き効率化していかないと事業の規模が大きくならないのも確か。
その辺の規模と組織のバランスってのは本当に難しい。

手作りの椅子をまるごと一つずつ組み立て、それを自分で売った職人は、自分の作った椅子で顧客が満足してくれたかどうかに敏感だ。
お客に嫌われたら、その痛みは自分の痛みである。
そこで職人は技術を磨き、モダンな椅子のデザインを自分で工夫し、商品に新しい感性を入れようと自分で努力する。
しかし椅子の世界にもアダム・スミスの分業論が導入され、工場では毎日、椅子の「脚」だけしか作らない職人がいるようになった。
彼らは自分の作った脚が他の職人の作った部品とピタリと合うように、会社の決めた部品規格や品質基準に組織ぐるみで従うことを求められた。
人が機械のように働くことが重要になった。
そうなると個人はモノ作りの楽しさから遠ざかってしまう。
また顧客の不満を自分の痛みとして感じ取る度合いも低くなる。
完成した椅子がいくらで売れるかよりも、自分は賃金さえもらえばいいという人が増える。
このメタファー(比喩)の意味は重要である。
産業革命以来、工場労働者に起きたこの現象と同じことが、二十世紀後半、日本企業のホワイトカラーに起きているのではないか。
P.127 - P.128


ユーザー体験全てをコントロールしようとした天才。 ウォルター・アイザックソン/スティーブ・ジョブス

とても話題になっていたジョブスの自伝。
相当今更ですが、今更読みました。
やはり稀有な人だったんだなぁ、と再確認。
読んだ勢いで自宅のマックを買い換えたくなったけど、我慢。

マイクロソフトがオープンかつ、水平展開なのに対し、
アップルはクローズで垂直統合したモデルだということがよくわかった。
それはソフトウェアとハードウェアを共に開発することで、
最高の製品を作りたかったから。
ユーザー体験の全てをコントロールしたがったジョブスの強烈なエゴこそが、
アップルのすぐれた製品、サービス、へと繋がっていることがよくわかる。

Windowsしかり、Androidしかり、ソフトウェアといえばオープン志向なものがほとんどだ。
それはそれで正しいのかもしれないけれど、
究極のルック&フィールはライセンスされたソフトウェアと
ハードウェアの組み合わせでは難しいのかもしれない。

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II


意識高い系の合言葉

Stay Hungry, Stay Foolish.
意識高い系のTwitterの自己紹介欄とかによく出てくる言葉。
で、そのジョブスお気に入りの言葉は元々ホールアースカタログというカタログに載っていたもの。

ジョブズはホールアースカタログが大好きだった。
とくに好きだったのが最終号で、大学にもオールワンファームにも、ハイスクールの生徒だった1971年に出たその号を持っていったほどだ。「最終号の裏表紙には早朝の田舎道の写真が使われていた。
ヒッチハイクで旅でもしていそうな風景で、『ハングリーであれ、分別くさくなるな』の一言が添えられていた」
上巻 P.107

デザインへのこだわり

デザインの流行に関しても先見の明があったんだな、というエピソード。
バウハウス流であり、ブラウンのようなシンプルさ。

「いま主流の工業デザインはソニーのハイテク型で、ガンメタかブラックあたりで塗り、いろいろと加工をおこないます。加工は簡単ですが、すばらしいものは作れません」と、製品の機能や特質にあったバウハウス流のデザインを提唱する。
「ハイテクな製品とし、それを、ハイテクだとわかるすっきりしたパッケージに収めます。小さなパッケージとすれば、ブラウン社の家電製品のように、白くて美しい製品を生み出すことができます」ジョブズはまた、アップルはすっきりとシンプルな製品にすると繰り返し強調した。
上巻 P.206

いつか死ぬ

人は誰でもいつか死ぬ。
死を前にすると大概のことはどうでも良いこと。
それで無駄なものを排除できるし、
大切なものが見えてくるってのはすごくよくわかる気がする。

人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。
ほとんどのことがー周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖などーそういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。
自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。
人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。
下巻 P.266

後継者

「でも、ティムは本質的に、製品タイプの人間じゃないんだよね」
P.267

後継者、ティム・クックのこと。
COO、オペレーションのプロ。
本質的に製品タイプではない。
そういう人で大丈夫なんだろうか・・・
ジョニー・アイブが頑張るんだろうか・・・。

ジョナサン・アイブ

ジョナサン・アイブ

アイブは精神的に疲れ切っていた。
ジョブズを自宅まで送る車中、ジョブズ不在で物事を進めるのがとてもきつかったとこぼす。
ジョブズがいなくなればアップルのイノベーションは終わるという記事についても不平をもらした。
「あの記事には傷つきました」がっくりと気落ちしたし、自分は正しく評価されていないと感じたとも打ち明けた。
パロアルトに戻ったジョブズも内心に暗いものを抱えていた。
自分は必ずしもアップルに必須の存在ではないのかもしれないとの思いにとらわれていたのだ。2009年1月に療養を発表したとき80 ドルたった株価は、5月末の復帰時、140ドルと自分がいないあいだもそれなりに評価されていた。
ジョブズが病気療養に入った少しあとにおこなわれたアナリストとの電話会議では、いつも落ちついて話すクックが珍しく、ジョブズがいなくてもアップルは大丈夫だと力説した。
下巻 P.311

アイブも、ジョブス本人さえも、あれだけの成功を収めていながら、
なお承認欲求があるんだな、ということに驚く。
もはや金なんかいらないから、最後に残るのは名誉欲なのかもしれないね。


日本の寝ぼけた新聞、出版へ

日経だけが真面目に取り組んでる印象。
みんな、寝ぼけてる。
で、突きつけられて初めて気づくんだろうな、手遅れだって。

アップストア経由の購読でも読者の電子メールアドレスやクレジットカード情報を渡すべきだと夕イムズ紙発行部門の役員が求めたが、それはできないとジョブズに断られてしまう。
これに怒った役員が、その情報をタイムズ紙に渡さないなどありえないと迫るがジョブズは動じない。
「その情報をくれと客に頼むことはできる。
ただ、その情報を渡したくないと客が思ったとき、ウチに文句は言わないでほしい。
嫌なら使わなければいいんだ。
お宅が困っているのは僕のせいじゃないからね。
この5年間、新聞をオンラインで公開しておきながら、クレジットカード情報のひとつも集めずにきたのはお宅らなんだから」
下巻 P.336-P.337

結局、購読者の情報というのは、新聞社にとっても、
出版社にとっても、宝なんだよね。

顧客基盤を全部君に渡し、アップルに情報を集めさせるわけにはいかないからね。
そんなことをしたら、情報を独占したあと、雑誌1部を4ドルじゃなくて1ドルにしろと君らは言ってくるだろう? ウチの雑誌を購読してくれる人について、それが誰なのかを我々は知る必要がある。
そういう人たちのコミュニティーをオンラインで作れなければならないんだ。
そして、購読契約の更新については、直接、売り込める必要があるんだ。
下巻 P.339

でも日本の出版社にこの重要性を認識してる人なんてほとんどいないよ。


ボブ・ディラン、いいこと言うわ〜

前に進み続けるんだ。
そうでなければ、ディランが言うように、
「生きるのに忙しくなければ死ぬのに忙しくなってしまう」からね。
下巻 P.429

ディランは詩人だね。

ボブ・ディラン全詩集 1962-2001

ボブ・ディラン全詩集 1962-2001

ボブ・ディラン自伝

ボブ・ディラン自伝

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ I

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

スティーブ・ジョブズ II

UI、UXの前に基礎をおさえる。それが人間中心設計! 黒須正明/HDCライブラリー 第01巻 人間中心設計の基礎

ユーザー・インターフェース(UI)、ユーザー・エクスペリエンス(UX)という言葉が、
ここ数年ネットの記事とかでも盛んに出てきているけれど、
そういったユーザビリティの高いプロダクトやシステムを作るための
解決策や、方法論をまとめた概念として提唱されたのが人間中心設計。(Human Centered Design)

使用する対象が明確な場合は、ユーザー中心設計とも言われるし、
逆に万人にとって使いやすいものを目指す際にはユニバーサル・デザインって話になる。

そして、本書はそのタイトル通り、人間中心設計に関する基本的な考え方や、
調査方法などの各種手法について紹介する本。

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

全3巻で、本書は理論寄りでちょっと固い感じ。
続く2巻、3巻は海外、国内の事例紹介になっているので、
こちらも合わせて読みたいと思っているところ。

人間中心設計の海外事例 (HCDライブラリー)

人間中心設計の海外事例 (HCDライブラリー)

人間中心設計の国内事例 (HCDライブラリー)

人間中心設計の国内事例 (HCDライブラリー)

多様性

志向性に関する多様性を考慮することは基本なのだけど、
国内だとあまり意識しないのが宗教。
色に関しては全然知らなかったのでメモ。

http://www.e-manner.info/hospitable/custom.html

宗教
現在の日本では、宗教は個人の行動に対して強い影響力を持っていないが、文化圏によっては、現在でも強い影響力を持っている。
禁忌とされる色の使用など、時に注意が必要になることがある。
P.15

ユニバーサルデザインの定義と7つの原則

デザインって感性と論理が高い次元で融合しているものなんだよなぁ、と改めて実感。

ユニバーサルデザインを語るときに必ず引用されるのが、ノースカロライナ州立大学のユニバーサルデザインセンターで活動したMace, R. の定義と七つの原則(1997) である。
彼は、ユニバーサルデザインを「できる限り最大限すべての人に利用可能であるように、製品、建物、空間をデザインすること」と定義し、次の七つの原則を挙げている。

(1) 公平に使えること―デザインは、多様な能力をもった人々に使いやすく売れるものであること(Equitable Use)
(2) 柔軟に使えること―デザインは、好みや能力が人によって異なっていることに適応していること(Flexibility in Use)
(3) 単純で直感的に使えること―デザインされたものは、経験や知識、言語能力やその時の集中力の水準に関係なく、容易に使えるものであること(Simple and Intuitive Use)
(4) 情報が知覚できること―デザインは、周囲状況やユーザーの感覚能力に関係なく、効果的に情報を伝えられること(Perceptible Information)
(5) 失敗に対して寛大であること―デザインは、偶然に、あるいは意図せずに何かをしてしまっても、危険な結果や不利な結果に至る可能性を最小に抑えること(Tolerance for Error)
(6) 身体的な努力を少なくすること―デザインは、効率的に、また心地よく使えて、疲労を最小に抑えるものであること(Low Physical Effort)
(7) 接近して使えるように大きさと空間の余裕を確保すること―ユーザーの身体の大きさや姿勢、移動能力に関係なく、接近し、手が届き、操作をし、利用できるよう、適切な大きさと空間の余裕を確保すること(Size and Space for Approach and Use)
P.18

ニールセンのヒューリスティック評価

これはニールセンが考える評価ポイント。
自社のサービスやプロダクトのチェックポイントとしてすぐに活用できそう。
ユーザビリティとユーティリティの話も考えさせられる。
ユーティリティの過剰な重要視は、よく言われる日本のメーカーの
ものづくりが陥った罠の1つなのかな。

単純で自然な対話を行うこと、ユーザーの言葉を話すこと、ユーザーの記憶の負担を最小にすること、一貫性を持たせること、フィードバックを与えること、明瞭な出口を設定しておくこと、ショートカットを用意しておくこと、良いエラーメッセージを提供すること、エラーを防ぐこと、ヘルプやドキュメントを用意しておくことの10項目である。
このように、評価法を適用したときにユーザビリティが高いといえるのは、発見される問題が少ないことを意味しており、ネガティブな面を少なくすることが高いユーザビリティを持つことと考えられてしまうことにつながった。
そうしたnon-negative な面でのユーザビリティは商品性につながらないという理由から、ユーザビリティ活動の普及には今一歩拍車がかからない状態が続いた。
他方、機能や性能を意味するユーティリティはpositive な製品の魅力につながるものであるため、当時の企業における関心はユーティリティ重視の方向に傾いてしまっていた。
P.24

経験マーケティング

経験価値とかの話。

Schmitt (1999) は、伝統的なマーケティングが、機能的な特性と便益に焦点をあてており、製品カテゴリーや競争を狭い領域の中で行っており、顧客を合理的な意思決定者ととらえており、分析的で計量的、言語的な方法と手段を用いてきた、と見ている。
その結果、ネガティブな面としては、測定や分析の正確さにこだわり、現場を考えず、顧客の真のニーズに焦点を当てずにきてしまう傾向があった。
これに対し、経験マーケティング(experiential marketing) では、顧客の感覚や感情、精神への刺激によって引き起こされる経験に焦点化すること、特定の商品に注目するのではなく消費状況全体を考察すること、顧客を合理的であると同時に情緒的な動物であると捉えること、そして方法やツールについては折衷主義をとることを特徴とする、と述べている。
P.46

そんでもって、顧客満足とかCRMに対する批判。
これ、一理あるよな。
ただ、CRMって狭義には取引が焦点なのかも知れないけど、
ある程度システマチックに仕組み化できたから普及したんだよなぁ、とも思う。
まぁ、この手の話は使い方次第だし、欠点を知りながらいかに使うかだよな、とは思う。

なお、2003 年の著書では、Schmitt は伝統的なマーケティングアプローチから、マーケティングコンセプト、顧客満足(CS:Customer Satisfaction)、CRM (Customer Relationship Management) を取り上げて批判している。
つまり、Kotler(2000) の言うマーケティングアプローチは、顧客のニーズに焦点を当て、顧客を満足させるということだが、実際にはエンジニアリング中心であり、また顧客よりも製品マーケティングに焦点を当てたセールス志向であるという。
また顧客満足は、機能や性能に焦点をあてており、顧客そのものを見落としており、経験に焦点をあてた方がプロセス志向的であるという。
さらにCRMは、顧客データベースを活用していながら、取引そのものに焦点をあててしまっており、顧客との関係構築を重視していないという。
P.46-P.47

フィッツの法則とヒックの法則

人間工学の分野の話。
画面操作に関するものがフィッツの法則、選択反応時間に関するのがヒックの法則。
こういうのも数式で法則化されてるんだね、というお話。

フィッツの法則(Fitts 1954, Fitts and Peterson 1964) は、人間のポインティング動作に関するもので、概念的にいえば、遠くにある目標ほど時間がかかり、サイズが小さい目標ほど時間がかかる、というものである。
P.169

ヒューマンエラーとその対策

人は間違うものだから、間違えた時のリカバリーも設計しておくという話。
こういうのって人の創意工夫が詰まってる感じがして、とても面白い。

フォールトトレラントと関係した考え方として、エラーを犯してもシステムが安全側に作用するように設計するフェールセーフ(fail safe)という考え方がある。
水道の蛇口には、水を出すためにレバーを下げるタイプと、レバーを上げるタイプがあるが、重力という自然法則を考慮した場合、万一の場合には後者の方が優れている。
また、運転者に不測の事態が発生しハンドルやペダルから手足を離した場合に列車が自動停止するような仕組みは、デッドマンブレーキ(deadman brake) と言われる。
また誤った操作をしようとしても危険な状態にならないように設計することをフールプルーフ(fool proof) という。
たとえば自動車で、ギアがドライブの状態の時はエンジンキーが有効にならないような設計は、予期しない発進による事故を防ぐのに役にたっている。
また誤った操作をしてしまった後、それをもとの状態に戻すundo という機能は、たいていのコンピュータのアプリケーションに備わっている。
P.172

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

人間中心設計の基礎 (HCDライブラリー (第1巻))

平易にまとめられたいわゆる現代思想のダイジェスト。 佐々木敦/ニッポンの思想

日本の現代思想の流れをざっくりとまとめてくれた良書。
まぁ、もちろん厳密に言うと突っ込みどころは色々あるのだろうけど、
これくらいざくっと書いてくれた方が大局が掴めて便利。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

佐々木敦のイメージは思想家というよりも、
音楽評論家、とくにノイズとか、現代系の音楽のってイメージだった。

ex‐music

ex‐music

いつの間にやらこういう立ち位置になっていたのですね。


特殊でありたい=凡庸

人と違う存在でありたいということ自体が凡庸。
人と違うと思ってるやつこそ普通。
逆説的だけど、本当に変わってるというやつは自分のことを変わっているとは思っていない。

蓮實はそもそもこのような「変えているつもりが似てしまう」こと、すなわち「特殊であろうとすることがそのまま凡庸さでもある」という逆説を「近代(人)」の特徴だと考えています。
ひととは違うこと、他者との差異を強調しようとすればするほど、それは他者(たち)と同様の「凡庸」な欲望に突き動かされていることになってしまうわけです。
これはつまり「自分のことを変わっていると思っている者がいちばんフツウ」ということです。
そして、どうしようもなく「フツウ=凡庸」であるにもかかわらず、というか、ぞれゆえに「変わっていること=特殊」をやみくもに求め、それどころか実際に「自分は変わっている」と誰もが勘違い出来てしまうような環境を評して、蓮實は「自由」の皮をかぶった「不自由」だと述べているのです。
P.113 - P.114

作者とは何か

作者の考えは何か、作者の気持ちは?
文系は作者の気持ちでも考えてろ、っていう揶揄が出てくるように、
作品=作者のものであり、作者の意図を読み取ることが読むことだと錯覚している。
作者の思いを慮るのではなく、自分がどう思うか、何を感じるか、こそが重要なのだけど。
まぁ初等教育からそういう誤解を植え込んでくるこの国においては、
作品=作者のもの、作者の意図=答えが本の中に存在している、といった
暗黙の前提に縛られている人が大多数になってしまうのは致し方ないのかもしれない。

作者がある考えや感覚を作品にあらわし、読者がそれを受けとる。
ふつうはそう見え、そう考えられているが、この問題の神秘的性格を明らかにしたのはヴァレリーである。
彼は、作品は作者から自立しているばかりでなく”作者”というものをつくり出すのだと考える。
作品の思想は、作者が考えているものとはちがっているというだけでなく、むしろそのような思想をもった”作者”をたえずつくり出すのである。
たとえば、漱石という作家は幾度も読みかえられてきている。
かりに当人あるいはその知人が何といおうが、作品から遡行される”作家”が存在するのであり、実はそれしか存在しないのである。
P.119

本当は、作品が作者を作り出している。

このような考え方は一見、いわゆる「テクスト論」的なものに思えます。
すでに六〇年代から、文学理論の分野ではロラン・バルトが、哲学においてはジャック・デリダミシェル・フーコーが、ごく大まかにいえば、文学作品=書かれたもの=「テクスト」を、本来その造物主であるはずの書き手=作者から分離し、作者の意図やその背景を成す伝記的事実とは完全に別個に、より自由で多様な読解可能性へ「テクスト=織物」を押し開いていくことを提唱していました(初期の蓮実重彦が参照したヌーヴェル・クリティックもこうした傾向を強く持っています)。
実際、柄谷はこの後、七五年にイェール大学に客員研究員として滞在した折に、アメリカにおけるデリダ受容=テクスト学派=脱構築批評の最大の立役者であるポール・ド・マンの知己を得て、追ってはデリダ自身とも親交を結んでいきます。
「作者」が「作品」を作り出すのではなくて、その逆(「作品」が無数の「作者」を生成する)なのだという転倒は、「作者の死」(バルト)や「テクストの外には何もない」(デリダ)といった言葉と確かに相通じています。
P.119 - P.120

作品の研究が作者の研究になりがちなのは、作者の意図を重視するからに他ならない。
本当は、作者が執筆当時どうだったかなんて作品と関係ないじゃんって感じなのだけど、
結局そういうわかりやすい物語の中に作品を位置づけた方が楽なんだろうな。

ものがたりというわかりやすさってとても危険だと思っていて、
特にわかりやすい話ほど裏がある。

筆者の理解だと、もっとも純粋に、つまりはもっとも素朴に理解された「テクスト論」とは、一種の読者至上主義です。
それはつまり「書くこと」に対して「読むこと」の自由を上位に置くことです。
漱石の「作品」の「読解」の数だけ「夏目漱石」という「作者」が生成される。
この「読解」の自立性と恣意性と多様性が「テクスト論」の切り開いた可能性でした。
がしかし、それはすなわち、ひとつひとつの「読解」の正当さ(真の理解)というものも、絶対的に保証されないということです。
「読者」の数だけ「作者」がいる。
けれども具体的な「作品」は相変わらずひとつです。
「作者」から特権性、専制性を剥奪して、多様な「読解」の側に軍配を上げることは、いわば「作者」も「読者」のワンオブゼムに置くことです。
となると結局のところ、あらゆる「読解」は、また別の異なる「読解」の可能性によって押し流されてしまう。
一個の「作品=テクスト」から「書いたつもり」ではない「読み」が幾らでも可能になるということを認めると、それらがすべて「読んだつもり」でしかないということも認めざるを得なくなる。
どこまでいっても「作品」の「真実」にはたどり着かない。
P.121 - P.122

まぁ、読者至上主義で良いと思うけどなー。
主体的に読むことの重要さをもっと伝えていった方が良い気がする。


ポスト・モダン

すべての価値が相対化され、支配的な価値観やものがたりが無くなってしまった時代。
所詮、ある視点においては、とかある価値観においては評価されるってだけで、
なんとも熱しにくい世の中だなぁとは思う。
まぁ、でもしょうがないよね。
価値観とは多様なものだ。

リオタールは、この本のなかで、「モダン」の時代を支えていた、「人間」の理念と実践の一致を「正当化」する「普遍的」な「価値」を担う「大きな物語」群、たとえば「自由」「革命」「正義」などといった概念が、今日の現実においては失墜し、もはや成立しがたくなってしまっていると述べ、それが「ポスト近代」の特徴だと言っています。
「大きな物語」とは「理想」や「大義」と言い換えてもいいものだと思います。
他にも色んなものが代入出来るでしょう。
マルクス主義」とか「美」とか「文学」とか、そもそも「人間」や「正当」や「普遍」や「価値」だって「大きな物語」です。
そして、ここからはリオタール自身の記述というよりも、『ポストーモダンの条件』出自の「ポストモダン」論の「ニッポンの思想」におけるパラフレーズということになるのですが、「大きな物語」が終わった後には、無数の「小さな物語」が散乱したまま残されることになります。
この「小さな物語」を、リオタールはウィトゲンシュタインに倣って「言語ゲーム」と言っていますが、もっと大まかな意味で、それは「小さな価値観」というか「それぞれの価値観」というか、たとえば「趣味嗜好」に代表されるような「個別的相対性」とでも呼べるだろうと思います。
こうして「ポストモダン」は、いわゆる「価値相対主義」(すべての価値判断は相対的であり、絶対は絶対にない)を導き出すことになります。
P.143

オタク=薬物依存

自分も結構オタクな方だとは思うけれど・・・
でも、この依存的な感じは良くわからん。

冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。
あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭のなかで回り続け、あたかも取り憑かれたようだ、というのは、少ながらぬオタクたちが実感を込めて語る話である。
それは趣味よりも薬物依存に似ている。
「薬物依存者」の「ドラッグ」が「萌え要素」に変わったのが「オタク」であり、彼らの「単純かつ即物的」な「依存」のありようが「動物化」と呼ばれます。
それはペットがエサに「取り憑かれる」のと同じだからです。
そういえば筆者は、ここでいわれているのとほぼ同様の「依存」を、かつて「テクノ・ミュージック」によって体験したことがあります。
それはまさしく「脳の結線が変わってしまったかのように同じ音が頭のなかで回り続け」る体験でした。
P.309 - P.310

これ読んでて、自分がテクノにハマりきらない理由がわかった気がした。
きっと全然、脳の結線が変わるほど聞いてないのだな・・・
いずれにせよ、最近そこまでハマるものも無くなってきてしまったのは寂しい限り。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

具体的かつビジネスに即した形でデータ分析を扱う入門書は貴重! 上田隆穂、田島博和、奥瀬喜之、斉藤嘉一/リテールデータ分析入門

やってる人はみんなやってる。
で、やってない人はまずやりたい。
そんなデータ分析がPOSなどを通じて集まる購買データ(=リテールデータ)分析だろう。

本書はリテールデータの分析に特化した入門書。
こういう目的でこういう分析をしてみよう、みたいなのが
とても具体的に示される。

もちろん物足りない点もあるけれど、これだけ実際のビジネスに即した形で、
データ分析の手法、その分析をするために必要なデータの形まで解説してくれる本は
これまで無かったように思う。

実際にビジネスの現場で周りにデータサイエンティストなんていないし、
でも、なんかこの領域に可能性を感じている世の一般的なビジネスマンには
とても有用なんじゃないかな。

リテールデータ分析入門

リテールデータ分析入門


データ分析ベースのCRMは万能じゃない。

反復来店は、感情的コミットメントや認知的努力を削減する動機づけといった消費者心理によっても引き起こされる。特に、感情的コミットメントは競合他社へのスイッチをよく防止し、より安定的な反復来店を生み出す。また感情的コミットメントは他の消費者へのポジティブな口コミの発信もよく引き起こす。ID付きPOSデータに基づくCRMの注意点は、計算的コミットメントをよく高めるけれども、感情的コミットメントを大きく高めることは期待できない点にある。
P.64

感情的コミットメントを高めるためには、企業に顧客志向が根付いていないとダメ。
クーポン発行などだけでは感情的コミットメントは醸成されないことは肝に銘じておかないと。
実際、その壁を越えていかないと真のリピート率向上には至らないんだろうな。

また、顧客がリレーションシップを望まない場合、
企業側からそういった顧客にアクセスすることは顧客の離脱を招いてしまうリスクすらある。

ちなみにどうすりゃ感情的コミットメントを作れるの?って話に関してはこんな感じ。

感情的コミットメントをつくり出すために小売業者に求められるのは、支払価格や推奨する商品をパーソナライズすることではなく、顧客1人1人の自分史において多かれ少なかれ特別な存在になることである。
P.67

ECの分野はどんどんパーソナライズ、One to One、マーケティング・オートメーションだと
騒がれているけれど、そういうのはいずれみんなやるんだろうし、差別化要因にはならない。
顧客にとって特別なお店としていられるか、究極的にはそこがポイントなんだろう。
じゃあ、どうやってそのリレーションを作っていこうか。
悩ましいけどね。


会員が店員!

紹介されていたPFSCの事例がめっちゃ面白かった。

ブランド・アタッチメント形成の究極の企業事例として挙げられるのは、アメリカ・ニューヨーク、ブルックリンにある会員制のスーパー(生協)、「パークスロープフードコープ(Park Slope Food Coop:以下PSFCという)」であろう。PSFCの店内には、近郊でとれたオーガニック野菜や珍しい種類の果物などが、ホールフーズマーケットの約半値以下で売られている。このPSFCの会員になるための条件の1つは、4週間に一度、2時間45分店で働くというものである。なんと、この店で食品を安価で買うためには、労働しなければならないのである。それにもかかわらず、PSFCには15000人以上の会員が登録しており、わざわざ郊外から1時間以上かけてこの店にやってくる会員もいるという。PSFCでは、会員が店員を兼ねることで、人件費の削減や、安値での買い物を可能にしているだけでなく、ワークシェアをすることによって、会員同士のコミュニティが形成されたり、自分がPSFCのオーナーであるという所有意識を持たせたりすることにも役立っているという。
P.153


リテールデータ分析入門

リテールデータ分析入門